2023年7月28日
「頭がいい」ということは、世間一般の俗っぽい、品格に欠けた人物評価のなかでは、最高レベルのものと考えていいだろう。
「ずるがしこい」という意味で否定的に使われる場合がないわけではないが、「お宅のお子さんは頭がいいですね。」と言われて、「ずるがしこい」と言われたと感じて、不愉快となる親はおそらく皆無だろう。
「頭がいい」というのは、内容的には、論理的能力、記憶力、直観力、連想力といったものだろう。機能的には、「合理性」を判断する能力、導き出す能力ということができるだろう。
「頭がいい」は、それによって社会に「合理性」をもたらし、「合理性」が社会にメリットをもたらすと期待されるがゆえに、高い評価が与えられていると考えられる。(「頭がいい」という看板だけでの高評価は、このことの副次的効果にすぎないであろう。)
しかし、「合理性」には「目的」が設定されていることが前提になるはずだ。「目的」なき「合理性」というのは概念として成立せず、ナンセンスである。
例えば、合理的に計画された犯罪という反社会的「合理性」が考えられるように、本来、「合理性」はその「目的」とセットで評価されなければ、社会的には無意味だと言わなければならない。
それにもかかわらず、「合理性」をもたらす「頭がいい」ということが、単独で、「目的」とは離れて評価される社会というのは、どこかに歪みがある社会だと考えられる。
「合理性」の有する数値化への適合性、それゆえの「合理性」と競争社会との親和性、それに加えて確率的思考による青田買い的社会の投機性がその歪みをもたらしたと考えられる。
そして、いつのまにか形成されてしまった「合理性」をめぐる競争それ自体の「目的」化は、社会的な「目的」一致の幻想、それゆえの「目的」議論のなおざり化、社会の共同性についての当然視、格差についての問題意識の欠如を社会に呼び込んでいると考えられる。
そして、社会の実態に目を向けてみれば、国家レベルから家族レベルまで、さらに自分自身との対話においてさえ、そこで展開されている議論、争い、葛藤のほとんどが「合理性」をめぐってのものであることに気づかされる。その際、セットで問題とされるべき「目的」が、脇におかれたまま放置されることが多発している。
実質的なメリットを忘れて、議論のための議論として「合理性」が議論されている場合が多いのだ。
一手段であるにすぎないはずの「合理性」が「目的」化して、ひとり歩きをしているのである。
このことがもたらした社会の被害は甚大である。多くの社会的病理現象がそこから発生している。
(「頭が悪い」という自己評価による自己否定感情の蔓延がその象徴だと考えられる。)
「合理性」が実は、社会にとって大きなマイナスをもたらしているのだ。
以上のような観点から、筆者は「合理性」を競う議論からは身を引くことを決意している。
そして、しかし、にもかかわらず、本論が実は「合理性」の立場に立って語られていることに気づかざるをえない。
現代日本という汚染空間で不可避的に罹患した「合理性」の病の病巣は、かなり根深く、体の奥にまで食い込んでいるのだ。
何とも恐ろしきかな「合理性」!