2023年7月14日

 

 その道の専門家ではないので、専門家からの叱正は覚悟せざるをえないのだが、世界的にも高い評価を受けているという現代日本の哲学者・柄谷行人(1941年生)が、しかもその世界的評価の象徴といえるらしいバーグルエン哲学・文化賞を受賞したタイミングに、その思想の集大成というような歌い文句のもとで、このような雑駁な考えを大著として刊行したことに、驚きを感じざるをえない。

 

 本書が書かれた目的は次のようなところにあると思われる。

 すなわち、現実の国際政治において「社会主義計画経済」が崩壊し、それに伴ってその理論的支柱となっていたとされるマルクス主義の影が薄くなってきているという状況において、マルクス主義が人類の到達すべき社会としていた「共産主義」という「夢」の復権を図ること。そして、その際、マルクス主義の理論的中核をなすとされている「唯物史観」あるいは「史的唯物論」というものについて、柄谷が考えるその理論的不十分性に基づき、全面的な再編を図ること。

 この強い思いは、一向一揆における「厭離穢土欣求浄土」の文句の如く、文学的な意味では、彼のいわば信仰として、ひしひしとこちらに迫ってくる。しかし、厳密学たるべき哲学としてはいかがなものかと思わざるをえない。

 

 もし、本書執筆の意図が「共産主義」「マルクス主義」の復権であるとしたら、次のような点こそまず最も基本的に検討されなければならないことであったはずである。

1 社会主義、そして共産主義の成立のための必要条件である人類の「生産力の超高度化」が、マルクス主義において生産力の停滞を招くとされた「資本主義市場経済」のほうにおいてむしろ進行し、「社会主義計画経済」のほうにおいては停滞したという事実をいかに考えるのか。

2 上記との関連で「生産力の超高度化」がもたらす重大なデメリット、すなわち地球規模の環境制約への対応のためには、「共産主義社会」においても、高度な地球的・大規模管理システムの構築が不可欠と考えざるをえない状況において、マルクス主義においては廃絶に至るとされた「国家」、あるいはそれを超える「世界的超国家組織」をいかに考えていくべきか。

3 「生産力の超高度化」「環境制約への対応」と裏腹の関係にあることとして、人類の無限欲望~苦痛からの解放・長寿への期待、増大しつづける地球人口を含む~に対して「社会主義」あるいは「共産主義」の立場からはどういう態度をとるべきか。欲望抑制が必要とすれば、そのことと「共産主義」が究極的目的としている人間的自由との関係をどう考えるべきか。

 

 残念ながら本書ではこのような観点はまったく見られなかった。

 

 そして、本書の内容の中核は次のようなところにあるのであるが、柄谷のその説は残念ながら混乱していると言わざるをえない。

 すなわち、柄谷は社会の変化をもたらす基本的要因として、経済的下部構造が社会の上部構造(法、制度、文化、宗教等)を規定するという唯物史観的な理解を認めつつ、その経済的下部構造として、一般のマルクス主義解釈では「生産様式(生産力と生産関係)」が挙げられているのに対して、それに代わるべきものとして「交換様式」を挙げている。

 そして、「交換様式」として次の4つを挙げている。

A 互酬(贈与と返礼)

B 服従と保護(略取と再分配)

C 商品交換(貨幣と商品)

D Aの高次元での回復

 この4つの「交換様式」が歴史的段階であるのか、そうではなく単に4つの類型なのか、柄谷の行論から明確には判別しがたい。

 仮に歴史的段階だとするならば、唯物史観において経済の下部構造として捉えられた「生産様式(生産力と生産関係)」については、自然環境からの必要資源のできるだけ効率的な獲得を図ろうとする人類一般の本来的な志向が、そのスピードは歴史段階による大きな違いはあるものの、認められること、すなわち、「生産様式(生産力と生産関係)」の独立変数的性格(歴史社会に変化をもたらす第1次的要因)を想定することの妥当性があるのに対して、「交換様式」を段階的に発展させていく「交換様式」における内的要因が認められず、「交換様式」に独立変数的性格を想定することは困難である。(「交換様式」は「何らかのもの」の従属変数的性格のものであり、「何らかのもの」とはたぶん「生産様式」であろう。)

 「交換様式」に独立変数的性格があると柄谷が考えるならば、柄谷は全精力をその立証に傾けるべきであったはずだが、そしてそれに本書内で着手しているのかもしれないが、まったく成功していない。

 また、歴史的段階なのではないとするならば、4つの「交換様式」はどのような論理によってもたらされるものなのか、そのことが説明されなければならないはずだが、歴史段階的な説明が見られるだけにとどまっている。

 

 そして、それぞれの「交換様式」には「力」があるとされ、その「力」が超人間的なものであるとして、「物神」「霊」などといささか神秘めいて説明されているのだが、特定の「交換様式」が、社会に、時代に、人間に、それに応じた特定の性格・傾向をもたらすというのはまったく当たり前のことであり、そのことはそのこととして科学的に分析されるべき対象である。

 しかし残念ながら、柄谷はその「力」を一貫して神秘のベールに包んだまま、その何たるかを追求しようとしない。

 このことから、本書はあたかも柄谷の「信仰告白の書」であるかのごとき様相を呈するのである。

 

 すなわち、本書執筆の動機となったはずの中核の説がはじめから不成立なのである。

 

 納得しがたい問題点はほかにも本書に山積している(中には有害と思われるような「でたらめ」まである)。

 しかし、その一々を挙げることは煩瑣であり、この中核の説の不成立の指摘をもって本書の不十分性は明らかにされていると考えられる。

 本稿はここで閉じておくことにしたい。

 

 本書に以上のような致命的な欠陥はあるものの、本書によって社会変化の法則への関心、マルクス主義へのアプローチ等が、現代日本におけるその希薄化が懸念される状態の中で、柄谷行人の高名と本書の読みやすさによって、若者たちを刺激する効果は大いに期待される。

 『学問のすすめ』として、皮肉ではなく、本書は高く評価されるべきものと思う。