2023年6月19日

 

 1558号(5月25日「論理的必然としての禅境」)では理屈先行、頭でっかちの愚問を発し、厳しい叱正免れ難しとの自戒となった。

 そもそも「禅境」の何たるかを頭でも知らず、まして体得は程遠い状態での愚問であるから、その愚かさはその道の方々にとっては笑止千万であっただろう。

 その「禅境」の何たるかについて、ラッキーなことに、井筒俊彦著「意識と本質」(岩波文庫)でその説明に接することができた。それを報告することにより、先の愚問のお詫びとすることとしたい。

 なお、井筒俊彦先生(1914~1993)は幼少より参禅経験を積むとともに、30余の言語わたる天才的な語学力のもとで世界の思想宗教に通じ、とくに「コーラン」を原典訳するなどイスラム教研究で世界的成果をあげられた方であり、「井筒俊彦ざんまい」(2019・慶應義塾大学出版会)という題の本があるほど多くの人びとが傾倒している、斯界の大巨星である。(2013~2016年には「井筒俊彦全集」全13巻が慶應義塾大学出版会から刊行されている。)

(以下での井筒先生からの引用はすべて岩波文庫「意識と本質」によるものであり、【  】でくくる。その他の表現は筆者の勝手な言葉づかいである。敬称は略させていただく。)

 

 井筒は「禅境」の何たるかの説明のため、「悟り」の前後の3段階を提示する。

 すなわち、禅者が悟りの境地に到る以前の日常的経験世界にいる「未悟」、禅経験の頂点の「悟」、頂点を極めた禅者のその後の段階の「已悟」であり、それぞれの段階の世界認識の観点から「分節Ⅰ」「無分節」「分節Ⅱ」と表わされる。

 第1段階の「分節Ⅰ」とは、1558号で「言語ゲーム世界」としたものだ。すなわち「人間が生活している「この世」(「娑婆」「浮世」「日常的経験世界」などと呼ばれる。)」での人間の認識のあり方で、「人間を取り巻く、何やら得体の知れない混沌とした環境を、人間が人間的関心から分節し(海、山、樹木、花、猿、鳥、蛙‐‐‐に区分けし)、それに名を与え(言語化し)、分節された諸要素の関係を見出し、現在・過去・未来にその延長拡大を見る世界」である。この「分節」とは、「本質決定」(すなわち、海とは何か、山とは何か、という相互に他との区別をするための定義)によってなされるのであって、「分節」すなわち「本質決定」である、と井筒はする。

 第2段階の「無分節」とは、禅の修行により物事の分節線が消滅し、あらゆる物事が「本質」を失う、「分節Ⅰ」の段階を脱した無分節の世界、すなわち「無」の世界だ。そして、【ただ、‐‐‐注意すべきことは、それらがいずれも「空」あるいは無「本質」性――より禅的に言うなら「無」――の理性的理解を求めているのではないということだ。ここで求められているのは、‐‐‐「心路を窮めて、‐‐心路絶した」人の実存的了解であり、意識そのもののある根本的次元転換を予想する全人間的了解である。‐‐‐‐‐‐理屈で結論することではない。事物の「無「本質」性をこの(筆者注:理屈での結論)、あるいはこれに類する、仕方で理解するだけなら、人は表層意識の領域を一歩も出ていない。‐‐‐‐(筆者注:真の無分節は)表層意識が完全に打破され尽くしたところにはじめて現われる深層意識的事態なのである。】(p154~155)、【禅の説く「無」は、意識的事実としてもまた存在的事実としても、絶対的無分節者と呼ばれるにふさわしい。だが、この絶対的無分節者は無ではあっても、静的な無ではない。それは本然の内的傾向にしたがって不断に自己分節していく力動的、創造的な「無」である。‐‐‐‐分節に向かってダイナミックに動いていかない無分節はただの無であり、一つの死物にすぎない。‐‐‐‐禅の考えている「無」は宇宙に漲る生命の原点であり、世界現出の太源である。】(p158~159)、とされている。

 そして第3段階の「分節Ⅱ」とは、「無分節」を体得した禅者が再び戻ってくる分節の世界、外見的には日常的経験世界だ。ここで井筒は「分節」は戻るが「本質」は失われたままで戻ってこないと言う。これを「無『本質』的分節」という。「分節Ⅰ」が「本質決定」がなされた上での固定された「分節」であるのに対し、「分節Ⅱ」は「本質」が失われた、それゆえ流動的な、凝固性のない「分節」の世界であり、「無分節」を悟った禅者が到るのはそこだと井筒は言うのである。禅の修行はこの「分節Ⅱ」を目的に行われるものということになる。

 

 さて、以上のような禅の3段階について、当然に生じてくる疑問に井筒がどのように答えているか、それを以下に紹介しよう。

 

(問1) なぜ、禅においては「分節Ⅰ」の日常的経験世界、すなわち物事の「本質」が捨て去られるのか?

 【答えて言う、人間の倒錯した意識の働きによって「本質」は現われてくるのだ、と。「分節Ⅰ」の次元で作用する意識(表層意識)はいたるところに「本質」を見る。倒錯した意識の所産。だから「本質」は仮構であり虚構であって、真に実在するものではない。本当はありもしない「本質」を、あたかも実在するかのごとく仮構して、それに基いて様々な事物を自体的存在者として固定し定立するこの表層意識本来の働きを、仏教では一般に妄念と呼ぶ。妄想分別とも。】(p151)

 【仏教的「本質」論の立場から見れば、経験的意識の思考対象としての存在世界は、隅から隅まで虚構の事物の充満する偽りの世界だ、ということにならざるをえない。】(p152)

 

(問2) 人間は「無分節」を感知する能力を有するのか?

 【山は山の「本質」(自性)があって山というものとして実在するのではない。ただ限りなく錯綜する因と縁との結び合いによって、今ここにXが、たまたま山として現象しているだけだ、という。山であるXが実在するわけではない。したがってまた、山であるXが川であるYと明確に区別されるのも、結局は「妄想分別」にすぎない。XとYとが別のものとして区別されるのは妄想分別であるとするならば、妄想を取り払ってしまいさえすれば、たちどころにXとYとの区別はなくなる。少なくとも、なくなるはずだ。そしてXとYだけでなく、一切の存在者について、そこに働く我々の意識の妄想分別的、すなわち分節機能を停止してしまえば、すべては、‐‐‐‐「唯だ一真如」に帰してしまうのである。】(p153)

 すなわち、「感知」という人間の情報処理作用はそのままで、妄想分別的、分節機能の停止により、「無分節」は感知できると言っているのだ。しかし、人間の情報処理作用を担っている六識(眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識)は妄想分別的、分節機能に根こそぎ染まってしまっているはずである。脱染は六識の耐えうるところなのだろうか。妄想分別的、分節機能の停止とはいっても容易ならざることにちがいない。サルトルの「嘔吐」がその体験を語っているとの井筒の指摘もある(p10~11)。禅の修行とはこの克服を可能にする作業なのかもしれない。

 

(問3) 「分節Ⅱ」、すなわち「無「本質」分節」の段階において、「本質」に依拠するはずの「分節」が、「本質」がない状態で、なぜありうるのか?

 【通常、言語道断とか言詮不及と称される禅体験のこの機微を、できるところまで、敢えて言語化してみよう。】(p168)と10数ページにわたり井筒は挑戦してくれる。残念ながらそのほとんどは筆者の理解能力を超えるものであり、ここにこれがその答えだと引用文を提示することは筆者にはできない。

 ただ、井筒の言語化の挑戦のなかの次のくだりは、なぜそれが筆者の理解能力を超えるのか、ということについてのヒントであるような気がする。また、それが答えを示唆しているような気がする。

 すなわち、【人間の見方だけに固執することはやめて、もっと広く大きな立場から、分節ということをもう一度見直してみるようにと道元(筆者注:曹洞宗の、あの道元である。)は我々に勧める。】(p177)、【「水、水を見る」の境位は、人間の言語的主体性の域を超えている。】(p178)、【分節された水は明々歴々として現成するけれど、これに「本質」を与え、水を「本質」的に固定するような言語主体はここにはいない。】(p179)

 もはや、ここには通常の意味での人間、言語的動物である人間は存在しないようなのだ。言い換えれば、そこは表層意識の人間の世界ではなく、深層意識の人間の世界なのだ。

 

 なお、いくつかの疑問が表層意識的立場からは出てくるのだが、それらは所詮、深層意識的立場からは無意味であり、愚問であり、対話不能と思われるので、取り敢えず今回はここで止まっておくこととする。