2023年6月6日
前々回(1558)で報告したように我々の日常的経験世界が「空」であるというのは、考え方としてありうると思う。
世界を感知する我々の意識の状態を、日常的な意識、表層的な意識とは別のレベルにもっていって、世界を感知するということがありうるからである。
「空」を端的に語っているのが般若心経である。
「色即是空 空即是色」といい、人間が感知する対象が「空」であるというのみならず、「受想行識亦復如是」といって、情報処理装置としての人間もまた同じように「空」であるといっている。
「観自在菩薩」、すなわち釈迦が、叡智を求めて修行し、このことを「照見」した、すなわちはっきりと知ったとしている。
そして、弟子のシャータリプトラ(舎利子)に「空」の何たるかをいろいろと説明するのである。
この般若心経の中の2カ所に般若心経の「空」の考え方にとっての異物が混入しているように思える。
異物とは、脱却したはずの日常的経験世界へのこだわりである、日常的経験世界への未練である。
1カ所目はその冒頭部分にある。
釈迦が叡智を求めて修行し、すべてが「空」であることを「照見」したとしたとする(「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」)、その次である。
「度一切苦厄」とある。一切の苦悩を度した、すなわち処理した、克服した、超越した、というのである。
苦悩とは日常的経験世界のものであろう。たしかに、日常的経験世界が「空」であることを知れば、日常的経験世界での苦悩など吹っ飛ぶであろう。
だから「度一切苦厄」が間違っているわけではない、当然のことだろう。
しかし、なぜわざわざ当然のことをいうのか?いう必要があるのか?
日常的経験世界すべてが吹っ飛ぶなかで、そこでの苦悩など今さら問題ではないはずだ。
にもかかわらず、そのことをいうのは、日常的経験世界におけるメリット(「利」)を問題としているからではないだろうか?
「空」を知ったのであれば、そのような功利主義的な態度はもはやありえないのではないだろうか?
2カ所目は般若心経が後半に入る部分である。
問題は1カ所目とまったく同じである。
釈迦は「空」という叡智に依ることによって、心のこだわり、わだかまりが無く、それゆえ恐怖が無く、一切の間違った考え方にとらわれることはない(「菩提薩埵、依般若波羅蜜多故 心無罣礙、無罣礙故無有恐怖 遠離一切顚倒夢想」)、というのである。
心のこだわり、わだかまり、恐怖、一切の間違った考え方、これらも日常的経験世界のものであり、1カ所目の苦悩と同様、日常的経験世界が吹っ飛ぶなかでもはや問題とはならないはずのことだ。それが、ここでもわざわざ取り上げられているのである。
ここでも日常的経験世界におけるメリット(「利」)を問題とする功利主義があると感じざるを得ないのである。
以上からすれば、日常的経験世界において「利」があるから「空」が選択されるべし、という日常的経験世界での功利主義を般若心経がもっているのではなかろうか?
日常的経験世界での生きやすさを求めるという日常的経験世界への未練が般若心経にはらまれているのではないだろうか?
厳しい禅僧であれば、般若心経のその不純、不徹底に対して、激しく「喝!」を入れるのではないだろうか?
そして、もしかすると、ここに露呈した問題は、不純物の潜り込み、徹底の不十分にとどまるような類いの問題なのではなく、般若心経がそもそも、日常的経験世界をこそ本来優先する考え方の思想だということを示しているのではないだろうか?
そしてさらに、般若心経を掲げる仏教を含め、アナザー・ワールド、パラレル・ワールドを説く諸々の宗教はなべて、ディス・ワールドのほうを実は優先するものなのではないだろうか?
表面的には何と言おうと、どう信じ込もうと、実際には、諸宗教はそのレーゾンデートルをその「真」たるところにはおかず、結局日常的経験世界への貢献という従属的役割にみずからをおとしめているのではないだろうか?
宗教というものの本質にかかわる問題である。