2023年5月27日
般若心経では人間の精神作用を一方では「空」として否定的にとらえながら、一方では最高の叡智を獲得するために必要な前提としているように思われる。
その矛盾についてChatGPTとやり取りをしてみた。
ChatGPTはこちらの問題意識をなかなか認識せず、かったるい思いをさせられたが、最終的には「仏教の教えの二重性」というような政治的とも思われる言葉を使ってChatGPTはその矛盾を認めるに至った。
途中のやり取りのかったるさが耐えがたい方は、最後の部分だけを読んでいただければいいと思う。
(問)般若心経には「観自在菩薩」が「五蘊皆空」と「照見」したとあります。その「五蘊」とは何ですか?
(ChatGPT)
「五蘊」とは仏教用語であり、人間の存在を構成する五つの要素や集合体を指します。これらの要素は、仏教の教えである「蘊(うん)」の概念に基づいています。
以下に、五蘊(ごうん)の一般的な解釈を示します。
- 色蘊(しきうん):身体的な要素や物質的な形態を表します。この蘊には、身体の形状、体の感覚、五感、身体的な感覚器官などが含まれます。
- 受蘊(じゅううん):感覚的な受容と感受性を表します。これは、身体的な感覚や知覚、感情、快楽や苦痛などの感覚的な経験を含みます。
- 念蘊(ねんうん)(筆者注:般若心経では「想」):意識や思考、知覚、心の働きを表します。これには、意識の活動、思考、思考の対象や内容、記憶、注意などが含まれます。
- 行蘊(ぎょううん):行動や意図、行為を表します。これは、身体的な行動や口の働き、思考や感情に基づく行動、意図的な行動などが含まれます。
- 識蘊(しきうん):知覚や認識、判断を表します。これには、外界の情報の受容、知覚の過程、認識や判断、思考のプロセスなどが含まれます。
「五蘊皆空」とは、般若心経において述べられる重要な教義の一つです。これは、五蘊が本質的に空であることを意味しています。言い換えると、五蘊は独立した実体を持たず、永続的な存在ではないとされます。この教えは、仏教の中心的な教義である「空(くう)」の概念に関連しており、諸法の存在の空性を説くものです。
「観自在菩薩」は、「五蘊皆空」という教えを理解し、その本質を照らし見る覚悟を持つ菩薩のことを指しています。この菩薩は、五蘊の空性を深く悟り、それに基づいて自己や他者の苦しみから解放される境地を目指す存在とされています。
(問)同じく「般若心経」における「照見」とはどういう意味ですか?
(ChatGPT)
「照見」(しょうけん)は、般若心経において重要な概念です。これは、仏教の教えの中で智慧や洞察力を指す言葉です。
「照」は「照らす」「明らかにする」という意味を持ち、「見」は「見る」「認識する」という意味を持ちます。したがって、「照見」は直訳すると「明らかに認識する」という意味になります。
般若心経における「照見」とは、真理や智慧を通じて、事象や存在の本質的な真実を明らかにすることを指します。それは、五蘊や諸法の空性を深く理解し、悟りの境地に至るための洞察力や覚醒を意味します。
般若心経において、「観自在菩薩」という菩薩が「五蘊皆空」と「照見」したとされています。これは、菩薩が智慧によって五蘊の空性を明らかにし、真実を直接体験する境地に到達したことを表しています。この照見によって、菩薩は自己や他者の苦しみの根源を超越し、悟りへの道を歩むことができるとされています。
(問)「受蘊」「念蘊」「識蘊」とは精神的作用、人間の情報処理作用と思われますが、それが「空」であり、「実体がない」とすれば、なぜ「照見」すなわち「明らかに認識する」「深く理解する」「洞察力」「覚醒」が可能なのですか?「照見」はどのような作用によってなされるのですか?
(ChatGPT)(筆者注:問に対し正面から答えていない。)
仏教における「受蘊」(じゅううん)、 「念蘊」(ねんうん)、 「識蘊」(しきうん)は、人間の心の機能や情報処理の側面を表現していますが、これらが「空」であり、「実体がない」とされる背景には、仏教の理論や洞察に基づく考え方があります。
仏教の「空(くう)」の概念は、一切の現象や存在が固定された実体や永続的な自己性を持たないという教えです。諸法(すべての現象)は相互に依存しあい、常に変化し、分割不可能であるとされています。つまり、「空」は、あらゆる事象や存在の本質的な性質であり、実体性のなさを指しています。
このように、受蘊や念蘊、識蘊も仏教では「空」であるとされます。それらは常に変化し、相互に依存しあって存在しており、独立した実体を持たないとされます。しかし、この空の本質を深く理解し、直接的に認識することによって、洞察力や覚醒が可能とされるのです。
「照見」(しょうけん)は、そのような空の本質を明らかにし、深く理解することを指します。照見は智慧の働きであり、洞察力や覚醒に至るための重要な要素です。照見によって、仮の実体性に執着せず、真実の本質を直接的に見抜くことができます。このような洞察によって、仏教の教えに基づく深い理解や覚醒が可能とされるのです。
照見は、修行や瞑想などの精神的な実践を通じて発展し、智慧が磨かれる過程で生じます。これによって、受蘊や念蘊、識蘊などの精神的な作用を通して生じる現象や情報の一時的な性質を超越し、真理を直接的に見ることができるのです。