2023年5月25日
理屈先行で「わかる」とすることは禅では最も嫌われる態度だと思われる。
「禅境」は実体験することによってこそはじめて得られるものであって、頭だけでわかったつもりになっていると「喝!」と怒鳴られたり、棒を食らったり、張り倒されたりする。
本稿は決して「わかった」とするものではないが、誤解を受けてその罰を食らいかねないところがある。このことをまず注意しておこう。
さて、現代思想においてはどうやら「言語ゲーム的世界観」が優勢となっているようである。
この「言語ゲーム的世界観」を前提とすると、禅が目指す境地が導かれるのは、もちろん実体験を意味するのではないが、論理的必然と考えられる。
以下はその説明である。
「言語ゲーム世界観」での「ゲーム」とは決して勝ち負けのことではないし、遊びのことでもない。ある特定のルールが支配する、ひとつの閉じた空間、独立した体系のことである。たとえば、「ユークリッド幾何学体系」、「囲碁の世界」、「ポケモンカードの世界」などがあげられる。それぞれ外部を排して、独特のひとつの世界を作っているといえるだろう。
「言語ゲーム世界観」とは、「この世」は言語で構成され、言語的ルールが支配している世界だという世界観である。
人間が生活している「この世」(「娑婆」「浮世」「日常的経験世界」などと呼ばれる。)とは、人間を取り巻く、何やら得体の知れない混沌とした環境を、人間が人間的関心から分節し(海、山、樹木、花、猿、鳥、蛙‐‐‐に区分けし)、それに名を与え(言語化し)、分節された諸要素の関係を見出し、現在・過去・未来にその延長拡大を見る世界だという世界観である。
世界は言語によってはじめて現われ出てきたものであり、言語無くして世界なし、言語がなければ世界はただ混沌があるのみ、という世界観である。
仏教での「唯識」という考え方はたぶんこれであろう。
言語なき状態の混沌世界は、仏教で「空」「無」「一」、道教で「玄」「太虚」、ほかでは「ブラフマン」「存在一性」などと呼ばれ、さらに仏教では分節することを「分別」と、分節されたものの総体を「色」などと呼ぶ。
般若心経の「色即是空 空即是色」とは、したがって「言語ゲーム世界観」を表わすと読むことができる。「一即多 多即一」などと表現されることもある。
「言語ゲーム世界観」からすると「この世」に何もないのではない。だが、天と地とにさえ分節されず、世界は混沌一体となっているとすれば、そこには何もないのと同じこととなるだろう。それゆえ「空」「無」云々との何もないかのごとき名づけになっていると考えられる。
そして、「空」であろうと「無」であろうと、人間によって分節されるということは、それは人間によって感知される何ものかではあるということである。
そして、唐突ながらサイエンスを持ち出すと、人間は電磁現象であるがゆえに電磁現象は感知しうるが、非電磁現象は感知不可能である。このことから、「言語ゲーム世界」を成立させる元ダネである混沌は「大電磁現象群」のことだと考えられる。
禅では「悟り」「涅槃」「成仏」という至高の状態に達することを目的とする。そのために修行する。その至高の状態は「言語道断」「以心伝心」「不立文字」「直指人心」などと言って、言語では表わすことはできないという。
禅がさげすむところの分別の世界とはほとんど「言語ゲーム世界」と同義であり、「言語ゲーム世界」を脱却することが、禅の至高状態なのであろうから、言語がもはや役立たずなのは当然のこととなる。
そして、「大電磁現象群」を元ダネとして「言語ゲーム世界」が成立するということは、論理的に、同じ元ダネのもとで人間的分節である「言語ゲーム世界」とは別の、何とか的分節による世界像の可能性があることが示唆される。
また、元ダネを分節せずに「大電磁現象群」のままに認識をとどめて、それを世界像とすることも当然に可能なはずである。
この別世界像の可能性によって「この世」たる「言語ゲーム世界」は絶対性を失い、相対的な世界に過ぎなくなる。
ここまでが「言語ゲーム世界観」を前提とした場合に導かれる論理的必然である。
さらなる延長は禅独特のものとなってくる。
禅は分節しない世界像を本来的世界とし、「言語ゲーム世界」である「この世」が仮そめなることを主張する。
禅は「即身成仏」「娑婆即寂光浄土」「煩悩則菩提」という。仮そめの「この世」にいるままに、分節以前の「大電磁現象群」を感知すること、それが「この世」での「成仏」であり、「浄土」であり、至高状態だとするのである。
なぜ、禅は「成仏」を、「浄土」を、至高の状態とするのであろう?
そもそも、この至高状態を人間はいかなる感知器官によって実感できると禅は説明するのであろう?
というのは、仏教では人間の認識作用、精神作用(「六識」という。)も「空」であり、「無」であるとしてその実在を否定しているからである。
ここに禅の弱みは無いであろうか?
論理的必然を超えたところでは、実体験を欠いているがゆえにであろう、様々な疑問が噴出してくる。
こういう愚問を呈するがゆえに、理屈先行、頭でっかちを禅は徹底的に嫌うことになるにちがいない。「喝!」。