2023年4月27日

 

 鈴木大拙は「自由・空・只今」(岩波文庫「東洋的な見方」所収)において「Aは非Aだから、それ故にAである」「0=∞」という常識に反するテーゼを紹介している。

 「Aは非Aだから、それ故にAである」については「「Aは非Aだから、それ故にAである」というところまで徹底しなくては、仏教およびその他の東洋的なるものの深所に手を著けるわけには行かないのである」等々と書いている(P71)。

 「0=∞」については「すなわち、ただいまがそのままに、無終無始の永遠である」(P73)、また別のところでは「一個の人間が直ちに無限の宇宙を吞吐することになる」「無限大がそのまま無限小の中に包まれ去ってしまう」(「東洋「哲学」について」、P37)と書いている。

 それぞれについて思いつくところがあった。

 こういう浅知恵を得々として披露するなどということは、禅の世界では「喝!」と怒鳴られ、導師に張り倒されることであろう。

 

 まず、「Aは非Aだから、それ故にAである」について。

 集合Aを考えるとは、そこに必然的に集合非Aを考えることを意味する。集合非Aの存在によって集合Aの存在が成立するともいえる。

 日常的経験世界、言語的世界、娑婆世界を集合Aとすれば、そこに集合非Aの世界が想定されることになる。

 それが、仏教的には「空」「無」などと呼ばれるものであろう。

 たぶん一神教文化圏での「神」「絶対」「普遍」「永遠」も同じ論理によって生じてくるものであろう。

 形而下の世界には形而上の世界が、論理的には、張りついていることになるのであり、論理的には形而上の世界があって形而下の世界があることになるのである。

 「Aは非Aだから、それ故にAである」はこのことを言っているのではないだろうか?

 

 次に、「0=∞」について。

 何ものでもない、素粒子が充満した、混沌としての宇宙、これが「0」ではないだろうか?

 その「ゼロ」である宇宙を人間の観点(「欲望」と言ったりする)から分別、分節し、名付けることによって創り出された言語的世界、これが「∞」ではなかろうか?

 「=」をはさんで、片方(「0」)には人間がおらず、片方(「∞」)には人間がいる、そういう「=」ではないだろうか?

 A、非Aに関連付ければ、片方が集合非Aに関しての状態を、片方が集合Aに関しての状態を述べているのではないだろうか?

 

 あらためて思うが、禅の世界では「喝!」と怒鳴られ、導師に張り倒されることであろう。

 禅の世界のような対応ではない対応として諸兄姉から御教示を賜れば幸いである。