2023年3月15日
大江健三郎は何を書いていたのか、逝去の報に接し、あらためて考えてみた。
苛まれていることから解放されるにはどうしたらいいのか、ということが追求されていたのだと思う。
何によって苛まれているのか?
性、暴力、差別、権力、そして神の不在。神の不在は理不尽、無意味と言い換えることができる。
解放を追求する以上、苛まれている状況はあくまでもリアルに、ハードに書かれなければならない。
それが大江健三郎の小説だった。
結果として難解になったのは当然のことだ。
答はあったのか?
答なのかどうかはわからないが、犠牲となること、自ら犠牲となることが最後の姿としてあったような気がする。
「追記」
大江健三郎の実物には一度だけお目にかかったことがある。
時期は忘れたが、半蔵門の国立劇場だった。
インドネシアのガムラン音楽の公演があり、2階最前列の3つか4つ右側の席に大江健三郎がいた。
当時、バリ島文化への評価が高まっており、その紹介者のひとりが文化人類学の山口昌男で、大江健三郎と交流のある人だった。
そういう関係で来ているのだろうと、その時思った記憶がある。