2023年2月11日

 

 「竹田・西現象学」(注1)に触れて、未来に期待をもつことができるような気がしてきて良い気分になっている。

 この気分を大事にして、不勉強の恥を忍んで、この気分の拠って来たるところをメモしておこうと思う。(注2)

 

 「正義」とは何であるかということをヘーゲル(1770~1831)が明らかにした。

 「正義」とは、人間がもっている、人間が人間である所以の「自由な意志」(注3)が維持され、実現するように図ることである。(注4)

 そのためには「お互いの自由の承認」が不可欠であり、そのための社会の仕組みが必要である。

 その社会の仕組みとしてヘーゲルは「国家」を考えた。(注5)

 ヘーゲルの考え方は近代に限らず、現代にも通じるものと考えられる。 

 しかし、現実は国家間の競合による悲惨な戦争、人々を支配抑圧する強権国家の登場、また思想面ではマルクス主義による「国家」の否定、ポストモダン思想による「正義」「権力」一般の否定により、ヘーゲルの理想とした「国家」の考え方は潰(つい)えている。

 ヘーゲルの「正義」を基礎とし、現象学の方法により「イデオロギー対立」を克服して「正義」を再建する道が開けている。(注6)

 

(注1) 現象学はフッサール(1859~1938)により始められた哲学であ 

    る。

     しかし、その後継者たちの展開はフッサール現象学の本質から外れたもの

    と竹田青嗣(1947~)、西研(1957~)は考えている。

     ふたりは自分たちがフッサールの正統な後継と考えているようだが、孤立

    しているようにも感じられる。

     いずれにしても、筆者のような哲学の「トーシロ」にとっては、ふたりを

    通してしかフッサールの現象学にアプローチできないというのが現実であ  

    る。

     

(注2) 筆者は哲学の「トーシロ」である。最近になって現象学についての入門書

    を4、5冊読んだにすぎない。

     しかも、例えば竹田青嗣の「欲望論 第2巻「価値」の原理論」、最新の

    出版である「新・哲学入門」が未読という情けない状態である。

     本文に書いたとおり、今の気分を大事にしたいと思ったのである。

 

(注3) 「ただ欲求や衝動に規定され促されて、何らかの対象を求める意志ではな

    い。それはむしろ、真の「自己自身」たろうと欲する意志なのだ。」

     「自由な意志は、‐‐‐どこまでもより普遍的なもの(普遍的な良いこと)を

    目指して進む本性をもつ」

     (いずれも「超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』(竹田青嗣+西

    研:講談社現代新書)」から)

 

(注4) そのための物質的基礎を獲得するために必要な労働は、手段として位置づ

    けられている。

     経済発展、生産性、効率性といったものは、やむをえざる労働を軽減し、

    「自由な意志」の実現に充てるべきエネルギー・時間を増やすこととして評

    価される。

 

(注5) 「「世界史」(ヘーゲル『法の哲学』最終部分)は、さらにその先の展

    開、国家どうしの闘争が、やがて精神の「理性的な」本質によって克服され

    てゆくという展望をもつ。」(前掲書)

 

(注6) 竹田青嗣においては現象学から個別の社会科学への仕事の引継ぎが考えら

    れているようだ。

     「われわれがもつことになるつぎの課題は、この基本原理(「自由の相互

    承認」と「創造的な活動」のための空間の創造)を社会学に転移することで 

    ある。「自由」の原理の「社会学的転移」は、まず成熟した社会=国家にお

    ける政治的、社会的努力の具体的条件や目標の設定として構想されねばなら

    ない。ここから後の理論的実践は、哲学の領域を離れて社会学的課題とされ

    るだろう。そこでは社会=国家の本質、あるいは人間の生の本質についての

    原理論ではなく、一定の目標に相関した社会の具体的構造と条件についての

    仮説が必要だからである。」(「群像」2004年8月号・「人間的自由の

    条件」から)