2023年1月23日

 

 「自閉症の現象学」(村上靖彦著・勁草書房)を読んだ。(読んでいた「生き延びるためのラカン」(斎藤環著・筑摩書房)にこの本の「自閉症児の立体感覚の形成」に関する感動的エピソードが紹介されていたのだ。)

 また、たまたま仲間内の話のなかで「現象学」を研究していた友だちの逝去が話題となった。

 この「現象学」という単語との接触をきっかけに、チンプンカンプンのまま本棚にしまい込んであったであった「現象学」(木田元著・岩波新書・1970年)、「現象学は〈思考の原理〉である」(竹田青嗣著・ちくま新書・2004年)を読み直してみた。

 そして本文末に掲げるような「現象学」についての素人理解を得、気宇壮大な「構え」をもつ「現象学」に大きな期待を抱くに至った。

 「現象学」は、世界観の違いから対立紛争を余儀なくされている人類を和解に導く可能性のある哲学なのではないか、と感じたのである。

 

 この期待は、竹田青嗣氏の著書での次のような記述に支えられている。

「何より重要なのは、深刻な世界観の対立、信念の対立が生じたとき、これを克服する本質的な原理として現象学は構想されたということです。ここに現象学の根本動機があります。ここから「確信成立の条件と構造」を解明するという根本的プランが現われ、それに対応するものとして「現象学的還元」という方法がうち立てられたのでした。」(P87)

「このような悪循環(イデオロギー的性格を帯びた議論では、思想の営みはフェアな対話を構成せず、どんな議論からも「妥当性」や合意を取り出せる見込みが存在しない、ということ)を断ち切るには、「イデオロギー的思考」が立てている暗黙の前提それ自体を問題にし、何がより深い前提とされるべきかについて原理的な再構築が必要です。わたしの考えは、そのような原理論の場面でこそ、「信念対立」の克服の条件についての学である現象学が重要な役割を果たすのではないかということです。」(P121)

 

 しかし、さらに読み直してみると、同書には次のようにも書かれているのであった。

「⑴「絶対的真理」というものは存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。

⑵しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものはまったくの無根拠であるとは言えない。そのような領域、つまり共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。

⑶共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとすると「イデオロギー」となる)、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

⑷しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現われる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。

⑸この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。「自由の相互承認」が各人の相互的心意によっては確保されず、「ルール」を必要とするのと同様に、世界観と価値観の「相互承認」も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。」(P67~69)

 

 すなわち、こちらでは、「科学、学問知、精密な学」という領域においては共通理解が成立しうるが、「宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観、美意識、倫理意識、習俗、社会的システム、文化の慣習的体系等々」の領域では共通理解が原理的に成立しないというのである。

 「人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。」というのである。

 筆者は「現象学」が、対立している世界像、世界観を共通理解に導く可能性をもつ哲学であると期待したのであったのに、こちらの記述は対立の現状をそのまま追認しているだけのことであって、大いにがっかりさせられるのである。

 「宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理」として「相互承認」という原理が提示されているが、そのためには「ルール」が必要とされているのであって、その「ルール」が可能だという根拠は示されておらず、慰めにはならない。

 「現象学」がこのレベルにとどまるのであれば、対立は「相互承認」によって克服されるという、何とも当たり前の、しかもそれが可能だという根拠も示されないままの、甘く、淡い期待としか受け止めることができない。

 

 前者の記述と後者の記述のどちらが竹田青嗣氏の認識なのであろうか?

 決着は、さらに現象学についての本を読むしか方法はない。

 竹田青嗣氏はその後の著書多数であり、昨年には「新・哲学入門」(講談社現代新書)という新著を出版されている。(筆者未読、県立図書館では貸出中。)

 現象学の最前線はその「構え」がもたらす大胆なチャレンジ精神によって新たな成果を上げているかもしれない。

 閉塞感が強まる社会の雰囲気のなかで、未来への可能性を感じさせる現象学への期待はまだ維持しておくこととしようと思っている。

 

【筆者が受けとめた現象学の「構え」】

 

 人類は宇宙的原因による滅亡まで、対立紛争を続けていくかもしれない。

 宇宙的原因による滅亡の前に、対立紛争によってみずから滅亡するかもしれない。

 対立紛争を抑えるためには、議論の成立する「場」が必要。

 その「場」とは、共有される「世界了解」だ。

 日常的感覚の客観的世界を前提にしていたのでは、その認識に時代的・地域的、文化文明的条件が介入しているため、それによって構成される世界像・世界観もまた普遍的・絶対的なものではあり得ず、「世界了解の共有」は期待できない。

 客観的世界をいったん離れ、脇において(現象学的還元)、万人が否定しがたき知覚からスタートした厳密な「学」により普遍的・絶対的「真理」を把握し、「世界了解の共有」をめざす必要がある。

 知覚から認識、さらに世界像・世界観の構成に至る人間という情報処理装置は、人間であることによる偏倚を蒙(こおむ)っており、時代的・地域的、文化文明的条件によって左右される世界像・世界観の影響を受けたものであることも判明。

 「真理」到達は不可能であり、「真理」を基礎とする「世界了解の共有」は断念せざるを得ず。

 「真理」到達は断念せざるを得ないとしても、「真理」の探究に代えて人間という情報処理装置が有する「確信成立の条件」を解明し、「世界了解の共有」に向けての努力の余地は残されている。

 すなわち、人間という情報処理装置の独特の働きから「確信成立の条件」を解明することによって、

① 「世界了解の共有」の基礎となる諸々の「認識」が帯びる「アバウトさ」を、無くせはしないが、縮減することができる。

② 「認識」の違いが発生する原因を解明することができる。

③ ②による解明によって異なる認識への理解が可能となり、異なる認識の間の和解・調和の可能性が開かれる。

④ 情報処理装置の誤使用による誤った「認識」を排除することができる。 

 人類に「世界了解の共有」の可能性が生き続ける。