2022年12月19日

 

 ロシアのウクライナ侵略は世界中に渦巻いている「西欧近代」への怨嗟のうちの一つの奇形的現われである。(参考:「この世界の問い方」(大澤真幸著・朝日選書))

 「西欧近代」は「豊かさ」「人権」「民主主義」をもたらした。人類への大きな貢献である。にもかかわらず、呪われている。

 「西欧近代」が競争を呼び、勝者の繁栄と敗者の悲惨を生み出したからである。

 敗者は自分を敗者とした根本的原因としての「西欧近代」を呪う。

 勝者は、そしてその一員である日本は、呪われる「西欧近代」にいかなる態度をとるべきなのであろうか?

 

 哲学者中村雄二郎は「西欧近代」を「西欧近代」たらしめた原理として「近代科学」「資本主義」「宗教改革」の3つをあげている。

 「豊かさ」も「人権」も「民主主義」も、この3つの原理がもたらせたものという説明が可能である。

 一方でこの3つの原理がたとえば次のような否定的要素になっている。

 「近代科学」は神秘主義の成立の余地をなくした。唯物的世界観を蔓延させた。人間は特別な存在であるという人類の自己愛を破った。

 「資本主義」は共同体を破壊し、人々を国家、民族に拝跪せしめた。人間を営利のための手段とし、非適合的、逸脱的人間を抑圧した。人間同士を競争・対立関係に置いた。人間を無限欲望の道に導いた。

 「宗教改革」は人間を個人個人に分断した。理性尊重主義を過度に助長した。個人を高慢の道に導いた。

 「西欧近代」はその敗者から呪われるのみならず、これらの否定的要素による被害者からも呪われている。

 

 「西欧近代」は、「西欧近代」を否定はしない「西欧近代」における敗者と「西欧近代」を否定する「西欧近代」による被害者という、ちがう立場の2方面から呪いを受けている。

 この敗者と被害者は反「西欧近代」という一致点により、その立場のちがいを自覚することなく、「西欧近代」の勝者に対して共闘することがある。

 ロシアとイランの野合はその一例ではないだろうか。

 「グローバル・サウス」諸国のウクライナ侵略に対する態度の微妙さにもその要素が考えられる。

 そもそも大日本帝国は二つの要素を抱える国だったのではないか。

 「西欧近代」の擁護の立場にある側の者は、この敗者と被害者の違いを十分に踏まえつつ、それぞれに対応し、共闘が成立しないようにしなければならない。

 21世紀の国際関係はこのことをめぐって展開する。

 

 そして我々自身も個人として、「西欧近代」の受益者であり、かつ被害者であるという2側面を抱えている。

 我々は次のような点においては被害者である。

 物的欲望を刺激され、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の誘惑に抵抗できなかった。

 野性が抑圧され、視野の狭い合理主義的人格を植え付けられた。

 慢性軽度貧困意識(プチブル根性)に乗じられて、政治的に飼い馴らされてきた。

 競争意識に妨げられて人間関係が貧しく形成されてきた。

 豊かな遊び心が十分に育たなかった。

 

 我々は個人的な生き方の選択の問題としても「西欧近代」への対応の仕方を問われている。