2022年10月27日
本書(岩波現代文庫)の最後に掲載されている三浦雅士の「解説」、「水滴に宿る宇宙~「女形の運命」について」の冒頭は、「渡部保の『女形の運命』は疑いもなく名著である。」で始まる。
本書は「解説」をそう始めざるをえない名著である。
本書は六代目中村歌右衛門論である。(六代目歌右衛門:1917~2001。成駒屋。人間国宝、文化勲章受章者。現役で活躍する梅玉、魁春は養子、東蔵は芸養子。)
だが、本書のパースペクティブは歌右衛門論にとどまらず、歌舞伎論にとどまらない。
歌右衛門の生き様を借りて、近代人とはどのような状況に置かれた、どのような悲劇的人間なのかという哲学的なことについて、議論が展開されている。
「ある読者が「オヤマのサダメ」と読んで下さったことがあるが、私としては「オンナガタのウンメイ」と読んで頂けるとうれしい。」
著者・渡辺保は岩波現代文庫版への「あとがき」でわざわざこう書いている。
その心は、本書が歌舞伎通の読者だけを相手にした俳優論にとどまるものではなく、もっと広い読者を対象にした近代人論と捉えてほしい、ということだと思われる。
歌舞伎についての知識があればあるほど本書が面白いことはたしかだが、一方で本書によって、ニーチェの「悲劇の誕生」「神は死んだ」「超人」「権力への意志」、そして本書の中で言及のあるニーチェ発狂時の言葉「俺は神だ」、それらが意味するところはこういうことなのであろうか、というような思考に導いてくれる。
そして、その思考は、現代における宗教、天皇制、ナショナリズム、アイデンティティといったものにつながっていく。
しかし、近代人論のために歌右衛門を材料にしたというようなことでは到底本書を片づけることはできない。
著者・渡辺保は、舞台での歌右衛門を長年にわたり、繰り返し見続けてきた人であり、歌右衛門の芸の変化についての詳細な記述もまた極めて読みごたえのある内容なのである。
著者の狙いは、二兎を追うことにあったというほかはない。そして著者は二兎を追って二兎を得た。二兎が密接なつながりのある二兎であることを見抜いた著者の慧眼であった。
著者・渡辺保は本書「女形の運命」の後、「歌右衛門伝説」「歌右衛門 名残りの花」を書き、この3冊を著者の歌右衛門についての集成としている。
後の2冊はほぼ歌右衛門論に徹していて、近代人論としての新たな展開はない。
やはり著者にとって追いかけたかった真の兎は歌右衛門であったのかもしれない、とも思う。
突然ながら、昭和恐慌における象徴的事件として、日本史でも学ぶ東京渡辺銀行破綻事件がある。
著者・渡辺保(1936~、86歳)はその東京渡辺銀行オーナー一族の子孫である。
大資産家の家に生まれ、子どもの時代から生で歌舞伎に親しむ生活を送っていたようであり、「時分の花」で輝いていた若く、美しい歌右衛門をたっぷり実見していた。
その豊富な歌舞伎経験、歌右衛門経験が本書を生み出しているのだ。
一方、当方はすでに衰えていた歌右衛門をテレビで垣間見るだけであり、けっして美しいとは言えない歌右衛門が尊重されることにただただ不思議な感じをもっていただけであった。
もし、若く、美しい歌右衛門を当方も知っていたならば、著者・渡辺保に歌右衛門論を書かせたエネルギーの拠って来たるところをもう少しは理解し、著者が指摘するところの歌右衛門の「時分の花」から「まことの花」への転換を実感することができたのではなかろうかと思い、残念至極である。