2022年10月11日
倫理道徳というものが、時代と地域が異なれば変化するということ、すなわち普遍性を持つ倫理道徳というものはないということは、マルクス主義の唯物史観を待つまでもなく、常識と考えられる。
そのような普遍性のない、時代と地域の制約をうけた倫理道徳でも、物心がついた時には、すでに何らかの倫理道徳が、あたかも絶対的なものであるかのごとくして、我々に刷り込まれている。
その刷り込まれた倫理道徳は普遍性のあるものではなく、特定の時代の特定の地域でしか通用しないものであることが頭の中ではわかっていても、我々は刷り込まれている倫理道徳に、それがその後の経験で地域的、時代的変化を受けることはあるとしても、ほぼ絶対的なものとして直面せざるを得ない。
変化の激しい時代においては、このことによって、人々の倫理道徳の内容が世代によって、また受け取る情報の量と質によって大きく異なることになる。
結果として、それぞれの倫理道徳の正当性が激しく争われることとならざるをえない。
そして、その争いにおいてそれぞれの倫理道徳はその正当性の根拠を示さなければならない。
その場合、正当性の根拠としてとして出てくるのは、形而上学であり、歴史であり、功利性である。
形而上学による倫理道徳の正当性の根拠とは、「世界の創造主たる神がその倫理道徳を人間に要求している。」とか「宇宙はこのように作られているので、人間はこのような倫理道徳の下で生きなければならない。」というようなもち出され方をするものである。
人間社会とは次元を異にするところに正当性の根拠があるとするものだ。典型例が「モーゼの十戒」である。(旧統一教会の家族重視その他の徳目(?)はここに該当するであろうか?)
歴史による倫理道徳の正当性の根拠とは、「大変にうまくいっていた時代があり、その時代においてはこのような倫理道徳の下で人々は生きていた。ゆえに、その倫理道徳が復活することによっていい時代を迎えることができる。」「現在、我々の社会は大変にうまくいっている。その理由はこのような倫理道徳が維持継続されてきたからである。ゆえに、このような倫理道徳が引き続き維持されなければならない。」というようなもち出され方をするものである。
前者は、過去の理想郷の実在を信じ、そこに正当性の根拠を求めるものだ。典型例が「日本の古代(万葉、古事記の時代)を理想視する神道」であり、「中国の古代(堯舜、周公の時代)を理想視する儒教」である。過去の理想郷の実在がはなはだ疑問であるところに、この説の本質的な弱点がある。
後者は、ある種の帰納法といえるものだ。現実が帰納法が成立するように動いている場合は反論を許さない面がある。しかし残念ながら現実はそのように動きはしない。このため、現実の中から不都合なことは捨象し、帰納法を成立せしめる要素だけをつまんで持ってくるという対応を余儀なくされることになる。そこを批判者に突かれて、現実を見ない議論とされる。これがこの説の弱点だ。
功利性による倫理道徳の正当性の根拠とは、まず何らかの社会目標、例えば経済成長、生態系維持、社会福祉向上、を設定し、「その目標に実現のためには理論的にこのような倫理道徳が必要である。」というようなもち出され方をするものである。この功利性による根拠の場合は、設定された社会目標の正当性について、その根拠をさらに明らかにしなければならないという理屈上の弱点を有する。
形而上学による根拠、歴史による根拠には功利性による根拠が混じり込んでいる場合がほとんどである。すなわちほとんどがそれによって社会がうまくいくという功利的な理屈でカバーされている。すなわち、形而上学による根拠、歴史による根拠には功利性による根拠に依存している面が強いのだ。
一方、功利性による根拠において設定された社会目標の正当性を詰めていくと、最後には、形而上学あるいは歴史による断定が、問答無用の断定が、すなわちある種の信仰的価値判断が析出されてくることになる。すなわち、功利性による根拠は形而上学による根拠、歴史による根拠に実は依存していると考えられるのだ。
(「教育勅語」が示すところの倫理道徳はその正当性の根拠をどこに置いているか、という問題は、「勅語」自体が前文と後文でそこに言及していることもあり、面白い問題であろう。)
さて、あなたの倫理道徳はその正当性の根拠を3つのうちどれに置いているだろうか?その際、他の2つにどのように依存しているだろうか?
政党、宗教教団などが唱える倫理道徳の正当性の根拠は3つがどのような構造になっているだろうか?
(政党が宗教であったり、宗教が宗教でなかったりすることがありそうに思える。)
(唱える倫理道徳の内容のそれぞれの正当性の根拠がバラバラで、必ずしも整合性をもって説明できないということが多々あるような気がする。)