2022年10月3日
唐突ながら、新約聖書の「ヨハネによる福音書第1章」は「はじめに言葉があった」と始まる。
「言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と続く。
岸田首相の経済政策は、『新しい資本主義』という言葉がで始まった。
しかし、『新しい資本主義』という言葉は神と共になく、言葉だけの孤立したものであった。『新しい資本主義』という言葉は神でないどころか、中身がないスカスカの「山田の中の一本足のかかし」であった。
岸田首相の「はじめに言葉があった」のほうが表現の上では聖書よりも純粋である。
聖書の「はじめに言葉があった」の「言葉」は、単に音声・記号としての「言葉」だけがあったとは解釈されない。
「言葉があった」とは、「言葉」とともに、「言葉」に対応する「概念」が存在していた、「言葉」はそれに対応する「概念」で充たされていたということを意味する。
すなわち、神の宇宙創世にあたり、創世すべき宇宙の設計図が言葉として、言葉の大系として存在していた、ということなのである。
したがって、神は「光あれ」「地が現われよ」等々の言葉を発し、その言葉に対応する「光」「地」、そして人をも含む全宇宙の存在が創造されたのである。
岸田首相の「新しい資本主義」は純粋に言葉だけがあったのであり、言葉だけしかなかったのであり、唯一『新しい』という形容詞だけが事後的に登場するかもしれない概念を規定するものであった。
しかし、『新しさ』とはいったい何なのか?
それが言葉として発せられないかぎり、霞が関も永田町も丸の内も市谷も、自分たちの都合のいいことを『新しい』と言って持ち寄って来るだけのことになる。
かくしてお化粧だけを変えた大年増がぞろぞろと並ぶ赤坂、新橋、向島になるのである。
しかも、岸田首相はそこに銀座、新宿、六本木が出てきても「いいね」、渋谷、原宿から西に延びても「いいね」という態度である。
その結果として、安倍時代からのものではあるが、ひとつの『新しさ』が、それまでの遠慮をかなぐり捨てて、脇から跳び出して中央の席を占めることになる。
日銀による無制約な財政ファイナンス路線がそれである。
岸田首相の『新しい資本主義』とは結局、「節度なき財政バラマキ資本主義」「闇なべ糞味噌資本主義」であろう。
国際金融資本というものは意外と気が小さい台所のネズミである。
表面的な日本の経済政策のナンセンスの裏には何か隠し玉があるのではないか、という警戒感をまだ捨てておらず、行動は慎重である。
クロダノミクスはこの国際金融資本の警戒感があればこそ、その政策の破綻を何とか免れている。
しかし、日本の経済政策が「節度なき財政バラマキ資本主義」「闇なべ糞味噌資本主義」であると見定め、警戒不要の判断に国際金融資本が至ったとき、台所のネズミ は恐竜となって穀物メジャーの穀物サイロを一挙に食い破る行動に出るだろう。
その時、運よく第3次世界大戦による破滅を迎えていないならば、世界資本主義は振動を感知してテーブルに手をつくくらいのことでしかない。
しかし、我が日本は、大戦を迎えてしまったと同様な、悲惨な『新しい資本主義』を経験せざるをえないことになるであろう。
(本稿脱稿時点(10月3日(月)午後3時半)において臨時国会冒頭の岸田首相所信表明演説に『新しい資本主義』という言葉が確認できない。支持率の激しい低下傾向を受け、経済政策の内容がバラバラであるため『新しい資本主義』という統一的な看板を掲げることを止めにする判断がなされたのかもしれない、などと思う。)