2022年9月7日
このままでは香川照之(澤瀉屋・市川中車)の歌舞伎復帰は危ない。
結果として、将来の猿之助を目指しているという息子・團子の将来も危なくなってくる。
歌舞伎役者は、芸が大事はもちろんのことだが、舞台に現われただけで、舞台に立っているだけで、観客に「快」を与える存在でなければならない。「花」があるなどともいう。
それなのに、香川は、舞台に現われただけで、舞台に立っているだけで、観客に「不快」を与える役者になってしまった。「花」がないどころではなく、「腐臭」を放つようになってしまったのだ。
興行主の松竹も、共演相手となる役者も、香川の登場を嫌うだろう。
復帰のため次のようなことにしたらどうだろう。
まず3年間、大部屋となり、「勧善懲悪」の「悪」の側のその他大勢のひとりとなって、飛んだり跳ねたり、そして斬られるのに徹する。
この間、当然のことながらセリフは無しだ。
「中車」の名前は松竹に預け、「照平」「照蔵」というような名前で過ごす。
観客にとっては、大勢の中に香川を見つけたとか、見つけられなかったとかいう観劇の楽しみができるであろう。
その後、「中車」に復帰し、セリフも語るが、生涯悪役、憎まれ役に徹する。
「悪役、憎まれ役」というのは役者として決して恥ずべきものでないことは言うまでもない。
「悪役、憎まれ役」として立派な役者であれば、それはそれで十分に価値のあることである。
ミーハーには受けないが、玄人筋は十分に評価してくれる。
香川照之、市川中車よ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、息子・團子のためにそのぐらいのことは覚悟していいはずだ。
それができたら大向こうから自然に声が掛かるに違いない、「澤瀉屋!」。