2022年9月2日
「その時点での頭の体操で得られた社会的な合理性などは、人知の限界により、考慮されるべき諸要素が十分に考慮されておらず、信頼するに値しない。一方、伝統・慣習は、歴史の試練に耐え、競合する諸原理諸原則に打ち勝ち、社会の安定をもたらした実績あるものであり、人知の及ばない真の社会的な合理性を保証するものである。」
このような「保守」の考え方には一定の説得性があると認められる。
しかし、この考え方には人を怠惰にする危険があることを指摘したい。
その危険な罠は「伝統・慣習」という言葉に仕掛けられている。
「いったい、『伝統・慣習』の具体的内容は何なのか?」
それは特定されていない。
特定されていないから、「伝統・慣習」の内容はその人にとっての「伝統・慣習」、その人が「伝統・慣習」と考えているもののことになる。
「伝統・慣習」とは、「伝統・慣習」と考えるから「伝統・慣習」なのだというトートロジーなのだ。
「伝統・慣習」は、実は膨大な集積からなる「伝統・慣習」から、その人がその時点で「伝統・慣習」として選択してきたほんの一部の「伝統・慣習」でしかない。
そして、その選択には原理原則はない。
原理原則があるとすれば、その原理原則の合理性についての説明を必要とすることになる。
そうなれば、「保守」は、対立するはずの人知による合理性を求める立場と同じになってしまう。
「保守」は「保守」である以上、「伝統・慣習」の選択に原理原則を求めないのである。
それが「保守」の原理原則なのである。
結果として、「保守」は「伝統・慣習」の選択を各人の恣意的判断にゆだねる。
各人にとってはその選択についての説明責任を求められない。
各人は「それが『伝統・慣習』である」と叫んでいれば、それでいいのである。
気に入らないことに対しては「そんな『伝統・慣習』はない」と文句を言えば、それでOKなのである。
かくして、「保守」の立場の人がすべてというわけではないが、「説明など七面倒だ。」「手っ取り早い正義を俺は求める」というような人が「保守」の旗を掲げがちということになる。
結局、「保守」は「問答無用」なのであり、知的怠惰に適合的なのだ。
なお、「保守」については、それを食生活にあてはめて考えてみるとわかりやすい。
伝統的食生活とは何か、それはどのように選ばれるのか、それはいかなる意味で好ましい食生活とされるのか、新食品、新調理方法とどのように対抗するか等々を考えると「保守」の本質に近づけると思われる。
また、シュンペーターが資本主義発展に必要な要素としたものは「イノベーション」「創造的破壊」であり、宿命的に「保守」と資本主義は対立せざるをえないものであることを付言しておきたい。