2022年8月29日
8月27日(土)朝日朝刊「オピニオン&フォーラム」に佐伯啓思氏の「異論のススメ・スペシャル・社会秩序の崩壊と凶弾」が掲載されている。
佐伯啓思氏、その記事にある紹介によれば「1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。」という方である。
掲載されているのは安倍元首相銃撃事件についての当面の総括という性格の文章だが、ここで佐伯氏は大きく3つのことを語っている。
それぞれを紹介しつつ、筆者なりの寸評を加えることとしたい。
まず佐伯氏は、事件が奇妙であり、「われわれが通常考える行動の手順や社会の秩序にしたがって理解することができない」「その全体の構図がまったく調和を失っている」と語る。
佐伯氏はこれを「不気味」と言い、「不気味さは、政治的意図をもたない私的な復讐心が、開かれた公共空間へ銃弾を撃ち込んだ点にある。交わるはずのない、私的な復讐と政治的な公共空間が重なり合ったのだ」とする。
そして、その「不気味さ」がもたらされた原因、「交わるはずのない」ものが交わることとなった原因については、「現代性」とか「単純に『民主主義への挑戦』というわけにもいかない。話はもう少し複雑なのである」とするにとどまり、原因に迫ろうとする態度を見せていない。
そもそも、事件は佐伯氏が言うようには奇妙でも不気味でもなく、因果関係は極めて単純でわかりやすいものだろう。
「交わるはずのない、私的な復讐と政治的な公共空間」を交わらせたのが安倍元首相であることはすでに明らかにされている。
すなわち、霊感商法、合同結婚式などを展開して庶民の私的空間を破壊する反社会的宗教団体を、反共という一点での一致と低次元のお互いの便宜によって、政治家の本来的活動の場である「公共空間」に、安倍元首相みずからが積極的に導き入れたことが事件を引き起こしたのである。
安倍元首相を「保守」の立場から高く評価する佐伯氏は、そのことにまったく知らんふりをして、事件を「奇妙」「不気味」「現代性」「複雑」とか言ってごまかしている。
佐伯氏の語る2つ目は、佐伯氏の考える「保守の精神」の意義である。
佐伯氏は「民主主義」「言論の自由」「法の支配」「公私の区別」「権利の尊重」といった諸価値を「リベラルな価値」と名づけて、これを是認している。
佐伯氏は「リベラルな価値」を是認しつつ、「リベラルな価値」は「目にみえない価値」に支えられており、「目にみえない価値」が軽視されるようになったことによって「リベラルな価値」が崩壊しつつあるとする。
佐伯氏の「目にみえない価値」とは「自制」「政治的権威の尊重」「慣習や道徳意識」「義務感や責任感」であり、佐伯氏によって「目にみえない価値」を醸成し維持するとされるものは「人々の信頼関係」「家族や地域のつながり」「学校や医療」「多様な組織」「世代間の交流」「身近なものへの配慮」「ある種の権威に対する敬意」「正義や公正の感覚」「共有される道徳意識」である。
そして佐伯氏は「目にみえない価値」」を重視するのは「保守の精神」であるとし、「それがなければ、リベラルな価値など単なる絵にかいた餅に過ぎなくなるであろう」としている。
「リベラルな価値」の成立のためには社会を構成している人々に自分たちは社会を構成しているメンバーであるという意識があることが前提となる。その意味では佐伯氏の語るところは正しい。
しかし、「目にみえない価値」「保守の精神」といった用語を使うことによって、旧道徳を擁護するだけの方向に誘導しようとするならば、簡単に佐伯氏の主張に首を縦に振るわけにはいかない。
「保守の精神」の名のもとに、伝統への無批判な拝跪、旧道徳への盲目的な拘泥による非合理的態度を示して、「リベラルな価値」の貫徹が要請されている局面でそれを阻止する保守派の動きは無視しがたいものとなっている。
その保守派の論客たる佐伯氏は、「リベラルな価値」を是認するポーズを戦術的にとりつつ、実は「リベラルな価値」に好意的ではないのであろう。
佐伯氏が「保守の精神」を「リベラルな価値」を支えるものとしているのも戦術であろう。
自ら語るように「保守の精神」は「リベラルな価値」と対立するものと佐伯氏は考えており、「保守の精神」こそが最優先の価値というのが佐伯氏における真実であろう。
(「目にみえない価値」また「目にみえない価値」を醸成し維持するものとして佐伯氏によってあげられているものの中に「国家」がまったく登場していない。佐伯氏の立場からすれば不自然極まる。その戦術的判断が「国家」の隠蔽にまで至っているのであろうか?)
佐伯氏の語る3つ目は、佐伯氏により安倍元首相が直面したとされるグローバリゼーションと保守との矛盾についてである。
佐伯氏は「大変皮肉だったのは、近年もっとも強く『保守』を打ち出した安倍元首相のもとで、『保守の精神』が崩壊していったことである。」とし、その原因を「(われわれが)世界的な大競争、急激な変化の時代にいる」ことに求めている。
すなわち「グローバルな大競争の時代にあっては、政治はリベラルな普遍的価値という『公式的価値』を高く掲げ、技術革新を推進し、社会を流動化し変化させなければならないだろう。だがそのことが、日本社会が保持してきた『非公式価値』を蝕むことにもなるのである。」とし、「安倍政治の成果が、逆説的に『保守の精神』の衰弱という帰結をもたらしたとしても不思議ではない。」「安倍氏は、もともと日本の土台となる慣習や道徳的価値の再生を強く意識していた。だが、グローバル世界への積極的対応が、むしろ逆にその崩壊に手を貸すことにもなった。この皮肉は、時代の問題であり、日本の大きな課題である。」としている。
佐伯氏は、グローバリゼーション対応のために安倍元首相が「保守の精神」を犠牲にせざるをえなかったとして、その矛盾・皮肉の立場に置かれた安倍元首相に同情しているのである。
その矛盾・皮肉が安倍元首相によって自覚されていた矛盾・皮肉であったかどうか、安倍元首相にそんな同情されるべき葛藤があったのかどうか、その事実はもはや知りようがない。
安倍氏の名を借りて佐伯氏は自分自身が感じる矛盾・皮肉を語ったのだと解釈するのが間違いないところであろう。
そして佐伯氏はその矛盾・皮肉の帰結を敗北主義的に語ったのだ。
「保守の精神」のグローバリゼーションによる敗北を佐伯氏は宿命として受けとめ、「保守の精神」の衰弱、崩壊をただ歎くだけの「悲しきノスタル爺」となっているのだ。
「保守派」はそういう佐伯氏を許すのだろうか?
それとも、そもそもそういう佐伯氏が「保守派」の象徴であり、典型であり、「保守派」自体がグローバリゼーションに全面降伏の敗北主義的存在で、「悲しきノスタル爺」なのであろうか?