2022年8月17日

 

 ある月刊誌に掲載された宗教に関する対談で、対談者はいずれも権威ある、まじめな方であるが、そのおひとりから次のような話が披露されていた。

「彼(注:発言者が尊敬しているという権威あるドクター)に聞いたことですが、宗教心のない人間には死生観がない。そして死生観のない人間が末期がんになると、自分を制御できなくなり、医療の現場で看護師や医師に絡んだり、暴力的になったりして、「臨床宗教師」という人が必要になってきたというのです。」

 長い発言のうちの一部であり、対談はさらにもっと長く、今月号では完結しないものなので、この発言の意図を断定することはできない。

 しかし、対談冒頭の発言であり、対談全体で予想される今日における宗教の必要性、重要性を語る糸口としてこの発言をしたと筆者は推測した。

 筆者は決して宗教をないがしろにする者ではなく、むしろ人間の叡智の宝庫として宗教を尊重すべきと考える者だが、この発言についての第一印象は極めて否定的なものだった。

 発言の意図について筆者の推測が当たっているとしたら、人に不幸を自覚させて宗教に導くこのような語り口は、マユツバ新興宗教の信徒勧誘と同じ語り口ではないか。

 誰しもが死を直前にして自分を制御できなくなり、看護師や医師に迷惑をかけるようなことにはなりたくない。

 おだやかに、泰然自若として死を迎えたい。大往生と言われるような死に方をしたい。死に際に恥をかきたくない。

 当然のことだが、しかし、そのような望みは現世的なものだ。安楽を求める現世的な「欲」だ。

 その現世的な「欲」の実現のために宗教心を持ち、死生観を獲得するように勧めること、その功利的な構造はマユツバ新興宗教と同じであろう。

 そしてここでは宗教心が、痛みを緩和するための麻酔の準備、恥ずかしくない葬式にしてもらうための生命保険といったものと同様に、現世的な対応のための手段として取り扱われている。

 宗教心が現世的な「欲」を実現するための手段としておとしめられているのだ。

 宗教心とは本来そういうものではないだろう。

 

 宗教心は、ある場合には、伝統・慣習・文化の中に溶け込んでいて、人びとの中に無意識的に存在しているものであろう。

 宗教心と気づかれないまま身についているものだろう。

 また、ある場合には、深刻な問題の解決のための個人の苦闘の結果として得られるものであろう。

 その宗教心は宗教心として本人に強く自覚されるものであろう。

 いずれもそこに現世利益追求的なもの、功利性は存在しない。

 「宗教心」が現世利益のための手段として獲得を目指されたとき、それはもはや動機の不純からして「宗教心」と呼ぶべきものではないだろう。

 宗教心がなくて、死生観がなくて、自分を制御できなくなって、看護師や医師や周りの人間に迷惑をかけて死ぬことになっても、無意識的に身についた死生観から穏やかな死を迎えても、獲得した死生観から泰然自若として黄泉の道をたどることになって、即席死生観でお茶を濁して死ぬことになっても、死は死、同じ死であることに変わりはない。

 真の叡智に基づいた大宗教があれば、筆者はそれを知っているわけではないが、死についてのそれらの違いなどは誤差の範囲として問題になどしないであろう。