2022年7月16日
あらためて申し上げるまでもなく、筆者は安倍元総理の国葬には反対である。
特に国葬による子どもたちへの影響を考えると悪寒に襲われる。
国葬となれば学校において何らかの対応が行われることになろう。
その時学校では、当り前だが、安倍元総理を肯定的に取扱わざるをえない。
その結果、子どもたちは素直に安倍元総理を「偉い人」「立派な人」と受けとめるであろう。
しかし、安倍元総理には、長期であったとか、外国を飛び回ったとか、外的な指標は様々あるものの、具体的な政治的達成はほとんどない。
勢い、安倍元総理を賞賛するためには彼のナショナリズムの姿勢を取り上げて美化するほかはなくなってくる。
国葬をきっかけに偏狭ナショナリズムが子どもたちに押しつけられることになる。
しかし、一方で報道がこのまま推移すれば、安倍元総理は実態からは程遠い、悲劇のヒーローという取扱いを受けたままになってしまう。
国民のあいだで安倍元総理の政治の功罪が整理されないまま、「国のために倒れた元総理」というムードで世間が流れていってしまう。
善意から弔問に並ぶ人々に、冷静になって考え直す機会が与えられない。
この状態が放置されることも、これからの日本の在り方を考えるという観点から問題である。
幸いに野党はおおむね国葬には批判的である。
その理由は、安倍元総理のスキャンダル論、葬儀経費の無駄遣い論など千差万別だが、国葬の妥当性について活発な議論が展開されるであろう。
当然、議論は安倍政治の総括とならざるをえないであろう。
岸田首相の国葬という判断は、事態を時の流れにまかせるのではなくて、安倍政治をまな板の上に載せる効果をもったのである。
安倍元総理が国葬に値しないという意味で筆者は国葬には反対であるが、安倍政治をトータルに議論する機会をもたらせるという意味で国葬という判断はいいきっかけを作ってくれたと思う。
そのことによって岸田政権がどれだけ安倍的なものを継承し、どれだけ安倍的なものから決別しようとしているのか、なかなかその本質を明かさない岸田政権の性格を国民の前に明らかにすることにもなるだろう。
この夏はコロナ対策を議論する夏ではなく、国葬の是非を議論する夏になってほしい。