2022年1月26日

 

 本棚の隅に丹羽文雄の小説「親鸞」(全5巻)(新潮社、昭和44年)があった。相当の昔、古本市で5巻ひと揃いで売っていたのを衝動買いしたものだ。全巻を読み通すことはなく放置していた。

 前々回、親鸞の護国思想の有無に関する服部之総の「親鸞ノート」における見解について書いた後、この丹羽文雄の「親鸞」に気づき、護国思想についてなにか触れられているところはないだろうかと、護国思想の表明と目されている手紙が書かれた親鸞の最晩年を取り扱っている第5巻を開いてみた。

 読み進めていってびっくり、すばり、「護国思想」という言葉を使ってこの問題が正面から取り上げられていたのだ。

 おそらく著者・丹羽文雄は服部之総の「親鸞ノート」を読んだ上、この問題について取り上げなければならないという責任感もあって、自分の見解を表明したのであろう。

 服部之総への言及はないが、その記述ぶりからして、服部之総のことを十分に意識していると感じるのである。

 

 「護国思想」を推測させるとされる親鸞の文章をあらためて掲げる。

 「念仏申さん人びとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために念仏申しあはせ給ひ候はば、めでとう候べし」

 (文中の「料」については、丹羽文雄によって「自身が浄土に生まれるためのたね」と注されている。)

 服部之総はこの文を「領家・地頭・名主などのかたちだけの念仏をする者たちは、自分たちの成仏のことを真剣に考えないで、朝廷のため、国民のために念仏するとするおめでたい人々だ」という意味の皮肉と解釈し、この文をもって親鸞に護国思想ありとするのは間違いだと主張したのであった。

 

 丹羽文雄は、以下のように言っている。

 「朝家のため、国民のために念仏を捧げよと親鸞はたしかにいった。しかしそれは、信心決定したひとがすることであった。その念仏は、その人にとっては余った念仏である。親鸞は、余った念仏をもちあわせていないようなひとは、おのれの往生のために念仏にはげめといった。大切なことは、自らが信ずることであった。自らが弥陀の本願を信じ、信心決定することであった。それをなしとげたあと、これを人に教えて信じさせ、報恩のための念仏を称えるのである。自信教人信である。それは親鸞の念仏布教の態度であったが、念仏者個人にもあてはまることであった。この教人信をなしとげる方便として、親鸞は朝家のため、国民のため、世の中の安穏のために念仏を行なった。そして、念仏者にも行えと教えた。‐‐‐‐‐‐親鸞はつねづね支配階級と手をむすんで、念仏をひろめようとするなといましめていた。念仏をひろめる方法は、自信教人信であった。自信教人信の手段として、護国思想を持ち出した。親鸞の護国思想は方便であった。」

 丹羽文雄は、親鸞にとって念仏の主目的はあくまでも個人の救済(=往生)であり、それを確信しえた人はさらに念仏を護国のためにするのもよかろうと親鸞は言っている、としているのだ。

 親鸞における護国思想の存在を、優先順位の低いものとしつつ、なかったわけではない、と丹羽文雄は理解しているということが出来るだろう。

 「余った念仏」「方便」という言い方は表現不十分でやや違和感があるが、全体として無理のない自然な理解と考えられる。

 

 服部之総は、わずかながらのものではあっても、親鸞における護国思想のにおいを認める丹羽文雄の見解には反発するであろう。

 マルクス主義者服部之総にとっては、国家、そして天皇制は、いささかも許すことのできない敵であったのだから。

 思想的、階級的敵であるにとどまらず、彼の仲間、彼の友人は、獄死した哲学者三木清をはじめとして、国家、そして天皇制によって殺されていたのだ。

 彼が愛する親鸞がその敵のために念仏するのを是認するなどということを服部之総は絶対に認めることが出来ないであろう。

 しかし、服部には思い込みが強すぎるところがあった。

 服部の敵である国家、天皇制は近代がつくり出した制度としての国家、天皇制であった。

 親鸞の時代の国家、天皇制とはその意義を大きく異にするものであった。

 服部の強い思い込み、激しい反国家、反天皇制の感情は、彼にこの違いを飛び越えさせてしまった。

 親鸞に時代の違いを超えた絶対的反国家、反天皇制を要求することとなったのである。

 服部之総の親鸞の文章の解釈に強引、無理を発生させてしまったのは、これだった。

 

 とはいえ、服部之総の強引、無理を勇み足として捨てて置けるものではない。

 本願寺は、単純に親鸞は護国思想ありとして、明治以降、国家への従属の道をあゆみ、華族の地位(東西の大谷家はともに伯爵)を与えられるなどして閨閥化し、権威主義的存在となり、親鸞の思想の純粋性、信心の絶対性に反する側面を示していたのである。

 このことへの服部之総の非難は、大いに尊重されなければならないだろう。