2022年1月10日
「メタバース」を体験できるウエアラブルなIT機器の普及が話題になっている。
「メタバース」とは、「超」を意味する「メタ」と、「宇宙」「世界」「空間」を意味する「ユニバース」との合成造語だ。
すなわち、仮想空間、超世界というような意味である。芸術の世界の「シュール・レアリズム」と同構造、類義のことばと言えよう。
今のところはエンターテイメントの世界の商品として営利対象でしかないようだが、非現実の世界をまともに取扱っている分野、すなわち宗教界が「メタバース」に接近するのは間違いないと思われる。
マインド・コントロールの手段として「メタバース」は大きな力を持っているはずで、善意悪意は別問題として、宗教界がそこに目をつけないことはないだろう。
「メタバース」体験を肯定するか否定するか、宗教論争を呼ぶ可能性もあると思われる。
「メタバース」でサルバドール・ダリの世界に人々をいざなうことは朝飯前であろう。
「臨死体験」(ニア・デス・エクスピアリアンス)を人々に提供することができるであろう。
宗教的覚醒者の神秘体験をインスタントに味わうことを可能とするだろう。
「千日回峰行者」の見る幻覚ソフト、明恵上人の夢ソフト、麻原彰晃のあの世からのメッセージソフト‐‐‐様々な「メタバース」が考えられる。
マホメッドの神秘体験ソフトまで行くと瀆神行為として提供者はテロの対象になるかもしれない。
体験可能感覚は視覚、聴覚、触覚から味覚、嗅覚にまで及び、その精度は限りなく実感に近いものに、そして実感そのものに発展していくであろう。
修行による苦痛の程度を割引し、神秘体験による恍惚感を割り増しするというような設計によって個人個人に対応して覚醒近似状態を導くというようなことも可能だろう。
「色即是空」で言えば「色」にあたるものを人間が「メタバース」として提供するということになる。
そうなれば、それが「実」ではなく「空」であるのは当り前である。
そしてその当り前が、現実世界の「色」もまた「実」ではなく「空」であることの理解を促してくれることにもなる。
現実世界は人間の「受想行識」(人間の情報処理機能)がでっち上げた砂上の楼閣でしかないことを分からせてくれる。
同じ砂上の楼閣であるのであれば、いずれも「実」でなく「空」であるに過ぎないのであれば、より安逸を選ぶことにためらう必要なしとの考えが生まれる。
おそらく、「メタバース」が発展・普及すれば、「メタバース」の世界への没入を良しとして現実社会に戻る意志を喪失する者たち、現実社会で生きる能力を奪われる者たちが発生するだろう。「メタバース」の機器から離れることができなくなる者が現われるであろう。
彼らは「メタバース」の世界を彼らの現実世界とし、それまで生きてきた現実は苦痛と汚濁の世界と忌避するだろう。
「厭離穢土 欣求浄土」の「穢土」として現実社会が、「浄土」として「メタバース」が位置づけられることになるだろう。
すなわち、「メタバース」は「ドラッグ」と同じような依存症を引き起こし、「ドラッグ」と同質の影響を社会に及ぼす可能性が強く、その影響の程度ははるかに「ドラッグ」を凌ぐであろう。
さらに考えれば、核戦争、小惑星衝突、地球の寒冷化温暖化といった人類の危機において、肉体という無駄で不安定な中間媒介をすっ飛ばして、「メタバース」と大脳を直接つなぐという技術によって生き残りが目指されることにもなるであろう。
その技術を危機ではなくて平常時から選択する人間、すなわち自分の肉体を捨て大脳だけになって人生を送ることを選択する人間も登場してくるに違いない。
「生物学の爆発」に倫理、道徳が追いつかないということがこれまで言われてきたが、「IT技術の爆発」もここまで来ると倫理、道徳が追いついていくことは更に一層むずかしそうだ。
考えてみれば、「メタバース」は「あの世」とも「彼岸」とも翻訳できる。
「あの世」と「この世」、「彼岸」と「此岸」の自由な行き来はメディテーションの目指すところのはずだ。
「メタバース」はそのための修行を不要とするかもしれない。
快楽に肉体は不要となるだろう。
究極的平等の達成のため、人類は男女の違いを捨て去るだろう。
一方で人類は生殖を放棄するかもしれない。
世界の創造は神の為したるところのはずだが、「メタバース」によってその領域を侵した人類に神罰が下ることになるのかもしれない。
この話はSFではない。明日の話ではない。今の話だ。