2021年10月13日

 

 著者・大澤真幸は大著「ナショナリズムの由来」(講談社、2007年)の「結びに代えてー救世主について」において、我々を捉えて離さないナショナリズムから我々はいかに自由になりうるのか、いかに解放されうるのかを問い、そして答える。

 「ナショナリズムの由来」が書かれたのは「現代社会の現実に照らして、ほとんど内容をもたないように見える規範(ナショナリズム)が、なぜ、そしていかに我々を捉えるのか、その機制(メカニズム)を解明」するためとされているが(筆者としては「ほとんど内容をもたないように見える」にとどまらず、「人類に大きな惨害をもたらし、さらに惨害を重ねるおそれのある」という形容を加えたい)、その解明は、究極的にはそのナショナリズムからの解放の方途を探る目的で、すなわちこの「結びに代えてー救世主について」の結論を導き出すために書かれたものと理解することも許されると思う。

 

 ナショナリズムは、自分たちが拠って立つ究極の規範、自己肯定の根拠、アイデンティティを最終的に人々にもたらすもの(本書では「第三者の審級」と名づけられる。)として、西欧における普遍的絶対的存在の喪失(ローマカトリック教会の権威低下)を契機とし、その空隙を埋めるものとして登場したのであった。

 そしてナショナリズムは、植民地ナショナリズム、エスノナショナリズム、宗教的原理主義、ファシズムといった変型をもたらしたが、自分たちが拠って立つ究極の規範、自己肯定の根拠、アイデンティティを最終的に人々にもたらすもの、すなわち第三者の審級として生み出され、人々を捉えてきたことに変わりはなかった。

 したがって、著者・大澤は、ナショナリズムとは別の、ナショナリズムを超える第三者の審級を探求することによって、ナショナリズムからの自由、ナショナリズムからの解放の道を見出そうとするのである。

 そして、ユダヤ教からキリスト教の移行に、ナショナリズムからの解放のモデルを見出すことができるとするのである。(以下、単に「ユダヤ教・キリスト教移行モデル」という。)

 

 ナショナリズムの問題(ユダヤ教の問題)は、言うまでもなく、その特殊性であり、普遍性の欠如である。(普遍性の欠如は確固たるべきものである第三者の審級の不十分性を意味する。)

 その特殊性をもたらすものは、「特殊性への愛、特定の共同体を弁別する「美点」や「歴史」への愛である」。

 しかし、そのようなポジティヴな性質に着目した愛は、ポジティヴな性質の喪失によって失われる愛であり、他にポジティヴな性質を有する共同体があればその共同体に奪われる愛であるという意味において真の愛とは言えない。(ポジティヴな性質という条件付きの愛ということになる。)

 大澤はここで、ポジティヴな性質とは逆にネガティヴな性質がもたらす、特異な欠点にもかかわらず抱かれる愛、否定的な性質「にもかかわらず」抱かれる愛が考えられ、このような愛こそが(特殊性を有しつつも)普遍性のある愛であるとする。

 ユダヤの民族意識はその受難を基礎としたものであり、ファシズムの背景も第1次大戦における敗北という否定的経験であり、ナショナリズムの特殊性が欠点、否定的性質に起因する場合が、初期のナショナリズムを除けば、一般的に見られる。したがって、ナショナリズムが立脚する愛が真の愛ではないとは言えず、普遍性のある愛である可能性があるはずである。

 これに対し大澤は、神=キリストが裏切られる者として、殺される者として人間の世界につかわされ、神が弱き者であったことを示し、神が人間化したときに、人は自分たちと同様に神=キリストでさえ見捨てられる存在であったことを知るというかたちで、否定的な性質「にもかかわらず」、神=キリストを愛することになるとする。そして、そうなれば、もはや、ファシズムをはじめとする「見捨てられた」というそれぞれの個別の体験から、「見捨てられた」感を埋め合わせるナショナリズムを形成するというようなことは、必要としない、どころか無意味化する。神の人間化は人間一般が「見捨てられた」存在であることを示し、「見捨てられた」存在であることに何ら特殊性は生じないからである。かくして特殊性を免れないナショナリズムは命脈を断たれることになり、ナショナリズムを超えた神のレベルで(人間化した神のレベルで)第三者の審級を得ることができるとするのである。

 

 しかし、神を信仰する立場であればこそ、自分たちと同じように神が「見捨てられた」存在であったことに大きな衝撃、大きな感動が生じるのであって、信仰なき者にとっては何の意味をももたらさないと考えざるを得ない。

 筆者はここで、20世紀に至って明らかとなったビッグバン理論に基づく宇宙必滅、人類必滅を思い起こす。ユダヤ教・キリスト教移行モデルにあった神が人間同様に「見捨てられた」存在だという認識は、この宇宙必滅、人類必滅という冷厳な事実によって十分に代替されるものと言えるのではないだろうか。

 

 大澤は最後の最後に次のように言う。(筆者の理解により勝手に改変している。)

 「それゆえ、一般化して捉えれば、こう結論できる。真の愛、普遍的な愛の可能性は、第三者の審級(ユダヤ教・キリスト教移行モデルでは神)を内在的な他者(人間)へと還元(人間化)することを媒介にして拓かれるのだ、と。第三者の審級を内在化(人間化)させうるということは、結局は、第三者の審級が~超越者としては~存在しないということである。すなわち、第三者の審級を人間は自己調達しなければならないということである。だが、しかし、人は、内在的な他者(人間)を(無条件に)直接に、普遍的に~完全に平等に~愛することはできない。第三者の審級の内在的な限界を媒介にしなくては、すなわち(ユダヤ教・キリスト教移行モデルで語られたように)第三者の審級のネガティヴな要素を媒介にしなくては、愛の普遍性に到達することはできないのだ。そして、ネガティヴな要素の媒介により愛の普遍性に到達したとき、愛はナショナリズムを結節(産出)するような閉鎖性を脱し、普遍的な社会空間を準備するような無限に開放的な形式へと転換するはずだ。メシアとは、こうした愛の普遍性を導く、ネガティヴな媒介としての第三者の審級でなくて、何であろう。」

 

 我田引水で言えば、大澤のこの最後の言葉にある「第三者の審級の内在的な限界」「ネガティヴな要素の媒介」、愛の普遍性に到達するために必要とされるこの「限界」「ネガティヴな要素」として、ビッグバン理論に基づく宇宙必滅、人類必滅、そのことが示す見捨てられた存在としての人類、ということが十分に考えられるのではないだろうか。そして、それによってナショナリズムは必要がなくなる、どころかまったく無意味化することになるのではないだろうか。ビッグバン理論こそ、ナショナリズムによる惨害が極度に達した20世紀に、人類を救出すべく、しかし宇宙必滅、人類必滅という悲しい冷厳な事実を携えて登場したメシアなのではないだろうか。

 

(大澤の最後の最後の部分のみならず本文全体を通じて、筆者の理解の限界により、勝手に大澤の考えを改変してしまっているところがあると思う。その点、お詫び申し上げ、御留意をお願いする。)