2021年9月23日
新書(本書は集英社新書)というものは知識情報を得て教養を豊かに育てるというイメージのものであるが、本書はそのようなイメージからはほど遠いものである。
本書は、橋爪大三郎による中国共産党打倒促進キャンペーンであり、政治的な主張を露骨に展開するものである。
共産党支配下の中国との対決路線であって、開戦論にまで至っているのではないかと思われる表現まで見られる。
筆者にとって本書は大きな驚きであった。
例えば、
「アメリカやヨーロッパ諸国をはじめ、人権の理念に賛同する国々は、共同歩調をとって、中国と対峙すべきです。」(P174)
「悠長にやっていたら、時間がどんどん経って、中国の実力がアメリカに追いつき追い越して、中国に対してとれるアクションの数も幅も狭まってしまいました。何かをするのなら、できるだけ早めのほうがいい。世界戦略を貫くポリシーをアメリカがどこまで本気で考えて、それを実行するのかという問題だと思います。」(P197)
このような姿勢は、橋爪大三郎が中国共産党をあたかも私的利益集団であるかのように捉え、無条件でほぼ「悪」と断定しているところから来ている。
すなわち、
「もしもある政府(注:当然中国共産党政府を指している。)が、人権を侵害すれば、その政府は正当でない。だから非難されて当然だ。国際社会の名誉あるメンバーとして扱われると、期待しないほうがよい。」(P11)
「国中の資本を管理していて、そこから利益を上げている。それをみんなで分配しているのが中国共産党であって、中国共産党はこのために存在していると言える。」(P146)
「共産党がひとつしかなく、政府を指導するかたちになっているのは、政府の権限を私物化し、その利益を配分するためではないのか。」(P147)
「人権が国を超えた価値だという当り前の考え方が、中国では当たり前ではない。‐‐‐中国では基本的人権という言葉もありません。」(P242)
これだけ相手方を全否定してしまうのだから、調整、妥協、共存を探る余地はないと、あらかじめ橋爪大三郎は断言していると感じざるを得ない。
そして、一方、アメリカに対しては、その問題点を指摘しつつも、肯定的存在であることを橋爪大三郎は躊躇なく主張するのである。
「人権のために政府が存在する。これが、西欧的な政治哲学です。アメリカもこういう考え方できているわけです。‐‐‐よって、人権を守らない政府が、大きな政治的、軍事的、経済的な権力をもって、アメリカを上回ることは、アメリカにしてみれば、絶対許すことができない。」
(P168)
「このやり方(注:統治権力による人権の侵害)が、世界最大の覇権国のやり方としては、はなはだ不適当だと、アメリカをはじめ西側世界が考えるのは、近代社会の歴史を踏まえれば、当然のことです。決して『自分勝手な人権思想を力ずくで押しつけようとしている』わけではありません。」(P176)
「人権という言葉はアメリカにとっても、ヨーロッパ文明にとっても当たり前。‐‐‐これが中国とアメリカの衝突のいちばん根源的な問題になっているのは、見過ごせないことだと思う。」
(P242)
さらに、橋爪大三郎はみずからの反中国共産党の主張を学問的立場からのものとして次のように語るのである。
「私の場合は学術的に述べているわけであって、政治運動ではない。」(P233)
「中国を、嫌中みたいに誹謗中傷するのではなく、アカデミックに考えて正しいことを発信し続けることはとても大事だと思う。」(P235)
この発言が橋爪大三郎の本音であったとしたら、まずはもっともっと冷静、客観的な分析が多角的になされなければならないはずである。
残念ながら、主張されている内容は、ほとんど「黄禍論」あるいは「善悪二元論」に等しい雑駁さに充ちていて、国際関係についての論考とは到底思えないし、アカデミックとは到底言い難いのである。
主張の中には、中国のウイグル弾圧に対して、パレスチナ問題の対イスラエルのように、何故イスラーム勢力は中国と対決しないのかというような指摘があり、さすがと思わせられたところがないわけではなかった。
しかし、主張全体の性急さ、単純さからすると、社会学者のはずの橋爪大三郎本人に何か異常があるのではと推測せざるを得ないというのが正直なところである。
筆者は橋爪大三郎を聞くべきところのある社会学者とこれまで捉えてきた。
今回の読書選定についても、ウイグル弾圧の実態についてその橋爪大三郎がいかに捉えているかを知ろうとするものであったのである。
本書は、この橋爪と日本人イスラム教徒のイスラーム学者・中田考との対談のかたちをとっている。
しかし、対談においては、中田考はわずかにコメントを加えたり、質問したりするものの、ほとんどは橋爪大三郎の主張の一方的展開となっているのである。
表題に橋爪大三郎のみを掲げて中田考の名前を割愛したのはこのことが理由である。
中田考は対談において自分の主張が十分できなかったことに対して、かなりの不満があったのではなかろうか。
本書の最後に「おわりに」として文章を掲載し、橋爪大三郎の主張とは相容れない自分の主張を展開している。
その文章は橋爪大三郎の主張の欠点をよく捉えたものとなっている。
この中田考の「おわりに」において、対談における橋爪大三郎の主張の問題点がいかに摘出されているかを見るところに、本書の読みごたえがあると言ってもいいであろう。