2021年8月25日
本通信1404で取り上げた成島柳北(1837~1884)のことである。
その名著とは当時の新興花街柳橋を取り上げた「柳橋新誌」、その名句とは「吾は固(もと)より無用の人なり。何の暇か有用の事を為(な)さん。」という自己規定の文句である。
その名著、その名句が余りにも有名であるため、成島柳北を考えるには何よりもそこから入るというのが常道ということになってしまった。
「柳橋新誌」を柳北が著わしたのは厳然たる事実であり、「無用の人」を柳北が標榜したのは再三のことであるにしても、その名著、その名句で柳北の全人格、全人生を考えるのは妥当ではない。
「成島柳北研究」(乾照夫著、ぺりかん社、2003年)によってそのことを教えられた。
名店の寿司屋を語るについて、そこのわさびを語ることは鋭い観点ではあるにしても、そのわさびを以てその寿司屋のすべてであるかのごとく取り扱ったとしたならば、それはやはり正しくはない。
寿司屋は寿司そのものがあってこそのわさびであるという、当り前の基本が外されてはならない。
名著名句にとらわれてしまった柳北の把握を乾照夫氏は次のように語っている。
「福沢諭吉や加藤弘之や箕作麟祥らのように我が国の「文明化」の推進者たり得ず、結局「世を拗ねた風流隠氏」とし、その社会批評を「小さな皮肉、風刺」と捉え‐‐‐‐柳北に私淑しその文学に傾倒した永井荷風との共通性から、そこに〈反近代〉的姿勢や伝統的美意識を見いだそうとする‐‐‐‐しかし、それらの多くは柳北の代表的著作である『柳橋新誌』の分析に集中し、‐‐‐‐柳北の全体像を捉えたものではなかった。」
柳北の人生の基調、わさびではなく寿司屋の寿司そのものはいかなるものであったかと見れば、次のような本流がありありと目の前に現われてくる。
すなわち、幕府奥儒者、将軍侍講としての徳川家に対する忠誠、儒学の有用性への疑問からの洋学勉強、幕府の危機に当たっての学者身分から武官への転換、幕府崩壊後は朝野新聞社長として、また請われての読売新聞への頻繁なる寄稿を通じての、その西洋体験からの、入獄も厭わぬ啓蒙的言論活動の展開(その内容は自由民権の主張をはじめとして、殖産興業から史跡保存論、公園論、演劇論等へと広範に及んでいる。)である。
柳北の人生は、まさに「有用の人」の「有用な仕事」への志向で一貫していると言わなければならない。
この流れの中に「柳橋新誌」(将軍侍講時代の「初篇」(柳北23~24歳)と幕府崩壊後の「第二篇」(柳北38歳)とに分かれる。当然に、その執筆動機は大きく異なるところがあると考えなければならない。)、そして「無用の人」という自己規定が、極めて例外的に、点として存在するにすぎないのである。
柳北をその名著、その名句から捉えてはならないことは明らかであろう。
西洋思想を大衆にもたらすに貢献のあった明治の啓蒙思想家として、福沢諭吉、中村正直等と並んで成島柳北は再評価されなければならない。
それこそがまともな柳北評価のはずであるが、客観的な柳北評価をその名著、名句が妨げてしまったのである。
筆者もまた、誤った入り口から柳北に至った者であった。
江戸時代の武士階級に広く生じていた「無用の人」との自覚、そこから生まれた頽廃性をはらむ江戸戯作文化、その流れのひとつである漢文戯作、そういうものとして、そういうものに魅力を感じて、柳北「柳橋新誌」を手に取ったのであった。
柳北はその流れを知悉し、その流れのものであるかの如く「柳橋新誌」を著わしながら、実際にはその対極に位置する立場をとり続けた人であった。
柳北は儒学への失望から、いったんは「無用の人」の自覚に傾くところがあったのかもしれない、とも思う。
その自覚に柳北が沈殿してしまうのを阻止したのはまさに圧倒的な西洋文明であり、その西洋文明にまだ疑問符がつかない、まだ幸せな時代に柳北がいたことであった。
時代と社会が人をつくることかくの如し、と言ってしまえば、余りにも人の能力、努力を無視したことになる。
自分の怠惰を棚に上げようとする自己欺瞞には自重、警戒しなければならない。