2021年8月17日

 

 今日の日本経済の苦境、世界経済における日本の地位の急激な低下の原因を何処に求めるか。

 今日の日本経済を語ろうとするとき、何時の時点から語り始めるのが現在を理解するのに適当であろうか。

 1985年のプラザ合意とするのが大方であろう。

 その大方の見方に立って、プラザ合意から円高不況、バブルの発生とその崩壊、アベノミクスの登場という日本経済の展開をわかりやすくまとめているのが「1985年の無条件降伏~プラザ合意とバブル(岡本勉著)」(2018年光文社新書)である。

 その時々の社会的事件も加えてあって、懐かしくもあり、なかなかの好著である。 

 

 しかし、プラザ合意を「無条件降伏」と厳しく評価しているように見えて、実はプラザ合意を次のように総括してしまっているところは、残念ながらいただけない。

 すなわち、「 ではあの当時、プラザ合意に代わる手段があっただろうか。

         プラザ合意が無条件降伏だと分かっていたら、日本は、プラザ合意を拒否して 

        いただろうか。

         たぶん、拒否できなかった。

         この時、日本は不公平な貿易をしていると欧米諸国から激しく批判されており、 

        味方になってくれる国はひとつもなかった。そんな状態でプラザ合意を突っぱね  

        て拒否したら、日本は完全に孤立していただろう。」(P257)

 

 プラザ合意(=無条件降伏)不可避論ともいうべき考え方であり、それは今日の苦境を宿命ととらえることにも通じる。

 その考え方には次のような問題がある。

 まず第1に、プラザ合意が円高・ドル安誘導であるにしても、それまでの1ドル=240円台を200円程度までにもって行こうというのが関係者の理解であって、ついには120円に到達するところまでをもプラザ合意の内容とすることはできないだろうということだ。

 秘密合意でもあって日本がアメリカ側から無理矢理にそれを強いられたというならば、それを「無条件降伏」と表現することは可能だ。

 安全保障でもチラつかされて涙を吞んだというのであれば、「無条件降伏」の名に価するだろう。

 小説的にはありうるが、5か国間の交渉であったことからしても、事実とは考えにくい。

 「無条件降伏」とひと言で総括してしまうのでは安易にすぎるであろう。

 合意されていた円高の水準を超えるその後の円高については、別にその原因が論じられてしかるべきであろう。

 そうでなければ民主党政権時代には1ドル=75円にまで至るストーリーとして不十分との感を否めない。

 

 第2に、プラザ合意におけるターゲットとされていたのは、日本のみならず、当時の西ドイツもそうであったということだ。

 そして、失政のツケを黒字国に押しつけようとするアメリカに対して、西ドイツは抵抗の姿勢をとっていたということだ。

 一方、日本の円高容認姿勢は参加者に驚きをもって受けとめられている。

 「味方になってくれる国はひとつもなかった。」は、ことをやや単純化しすぎているであろう。

 その時の姿勢がプラザ合意後の展開に影響があった可能性も考えられる。

 

 プラザ合意が日本経済の今日を規定しているという判断は正しいと考えられる。

 しかし、いかに規定したのかという分析が不十分では、せっかくのその判断から教訓を引き出すことができない。

 プラザ合意が日本経済の今日を規定しているがゆえに、それだからこそ、その冷静な分析が望まれる。

 

(なお、本書と同じ光文社から、いわゆるリフレ派・岩田規久男氏の「『日本型格差社会』からの脱却」がこの度出版された。

 そこには「プラザ合意」の「プ」の字もない。いささか驚きを禁じ得ない。)