2021年8月14日

 

 菅義偉首相が「問答無能」振りをまたさらけ出してくれた。

 本日(8月14日(土))朝日朝刊によれば、官邸で記者団から政府の新型コロナ対策の評価を問われ、「自己評価することは僭越だと思う。」と述べた、とのことである。

 漢字が正しく読めなくて恥をかいた麻生さんの例がある。しかし、菅首相の場合は「僭越」などとわざとむずしいことばを使いながら、その用法を間違っているという意味で、麻生さんの場合のような愛嬌もなく、何か余裕のない、むごたらしい感じがある。

 朝日の記事は、「僭越」の意味を記事の末尾に置き、菅首相の言葉遣いの誤りを示唆するにとどめ、ストレートに誤りだと指摘をしてはいない。しかし、筆者は「水に堕ちた犬を打て」の立場からはっきり菅首相の誤りを指摘する。

 

 当該記事に紹介されている「僭越」の意味は、「自分の身分・地位をこえて出過ぎたことをすること。謙遜の気持ちでも使う。」である。筆者の持っている広辞苑では「身分をこえて出過ぎたことをすること。でしゃばり」となっている。

 他者の出過ぎた行動を「あいつのあの言動は僭越だ。」と非難する用法もあるので、「僭越」の意味に「自分の」という限定を入れる必要はないであろう。

 今回の場合は、菅首相が自分のことを言っているので、「自分の」という限定が入って差支えはない。

 

 「僭越」という言葉は、ある行動を敢えて行う場合に「僭越」という非難を前もって避けるために使う場合と、ある行動を控える場合の理由・言いわけとして使う場合がある。

 「諸先輩のいらっしゃる中で誠に僭越ですが乾杯の音頭をとらせていただきます。」というような場合が前者である。

 高名な芸術家の作品についての評価を問われた場合の「誠に僭越で私のような門外漢が申し上げることはできません。」が後者である。

 そして後者にはもうひとつの場合がある。自己の言動についての評価を問われた場合で、自信満々なのであるが、自画自賛になることを謙虚に避ける場合である。

 すなわち、「(りっぱな成果を上げられましたねという賞賛の言葉に対し)夢中になってやっただけで、結果はみなさんに御判断いただくべきことであり、自分で評価するなど僭越至極でございます。」というような場合である。

 この「僭越」の最後の用法は、「周りからの賞賛」「高い自己評価」という要件のもとで「自画自賛の回避」のために採用される用法である。「謙遜の気持ち」がベースとなる用法である。

 「周りからの低評価ないし批判」「自画自賛の要素の欠如」という条件ではそもそも自己評価を控えることが「謙遜の気持ち」を表わすことにはならない。「自己評価は僭越」という表現が出てくる余地はないのである。

 

 菅首相はこの最後の用法が使われるべき場合をまったく心得ぬまま、「僭越」という言葉を生かじりのまま使ったのである。

 麻生さんの単純誤りであるならまだしも、恐るべきは菅首相が我々とは違う言語世界の住人である可能性があるということである。

 すなわち、我々と基本的価値観を微妙に異にしているかもしれないということである。

 「権力」とか「民主主義」とか「正義」とかの感覚に我々とは違うものを潜めているのではないかということである。

 「問答無能」なのは菅首相の「能力」の問題ではなく、属している言語世界の違いに起因しているのではないかと思われるのである。