2021年8月10日

 

 「五輪すら止められない国が、戦争を止められるわけがない。」

 フォトジャーナリスト那須圭子さんという方のことばである。

 8月9日(月)朝日朝刊の文化欄に、ある反骨写真家の生誕100年を報じるコラムがあり、そのコラムにこのことばがあった。

 不意を突かれた感がある。

 

 我が国参戦の時、国民的興奮はオリンピックの比ではないであろう。

 巧妙に仕組まれた国民的興奮のもとで自衛隊は出発していくであろう。

 流血があり、無残な死があり、救出劇があり、殲滅があり、破壊があり、‐‐‐‐興奮はいやがうえにも募るばかりであろう。

 その時、この戦いに反対する者を国民は許さず、「非国民」との指弾をするであろう。(今回、「オリンピックに反対するものは国民ではない」という発言があった。)

 反対者の家には石が投げられ、家族にも害が及ぶであろう。街宣車が乗りつけるであろう。守ってくれる者はないであろう。

 それでも覚悟をもって抵抗を続けることができるか。

 

 今回のオリンピックには新型コロナという逆風があった。

 それに乗ったオリンピック反対論はマスコミにも生じた。

 我が国参戦の時、醸成されてしまっている興奮にあらがって、参戦反対を唱えるマスコミは登場しうるであろうか。

 国民の興奮に対して、参戦の人道性、合法性、合理性を論理をもって問い詰める力をマスコミは持ちうるであろうか。そういうコメンテーターの発言の機会をマスコミは設定できるだろうか。

 目を蔽い、耳を塞ぎたくなる今回のNHKの忖度報道ぶりからすると、参戦ともなれば民放もまた変わりはなかろうと、ほとんどあきらめの境地になる。

 

 自分を平和主義と信じる者は、生じうるであろう状況を様々に推測し、まずは何よりも国民的興奮に巻き込まれない自分を確保しなければならない。

 そして、自分のとるべき態度をシミュレートしておかなければならない。

 このシミュレートをしておかないと、自分と信じていた自分が自分ではなかったという悲劇に最期の最期に直面しかねない。

 (高齢者にとっては財産分与シミュレートも大事、葬式シミュレートも大事、しかし、何より大事なのは、ことに当たっての自分の確保だ。)