2021年7月19日

 

 解説北の富士、舞の海も言葉を失っていた。その翌日(7月19日)朝日朝刊の見出しは「白鵬 勝ちだけ求めて」「なりふり構わず 全勝16度目」というものだ。

 肘打ち、張り手、対正代戦における異常立合い、前の2つについては協会から注意があったことがあると思うが、いずれも反則というわけではない。

 勝負は勝負なので、大相撲ファンも結果として受け入れざるをえない。

 しかし、興を削がれたことは否定できない。終わった後の爽やかさがない。後味が悪い。せっかくの名古屋場所が台無しだ。

 言えば、白鵬が「野暮」なのだ。相撲の本質をどこかで見失っているのだ。

 

 推測されるのは、その原因を白鵬のモンゴル出身に求める議論である。

 しかし、その議論は相撲を見ていない人たちの議論でしかない。

 さわやかなモンゴル出身力士がたくさんいる。

 今場所14日目には次のようなこともあった。

 モンゴル出身玉鷲(前頭10枚目)が14日目に北勝富士(3枚目)に圧勝した。その相撲で、玉鷲は連続出場1360回・歴代6位の記録を達成したのでインタビューを受けた。その時玉鷲はまず、押し倒した北勝富士に対して、立ち合いの当たりがズレてしまい、当たりを正面から受けられなくて申し訳なかったと、詫びたのである。勝ちをおごらず、記録をおごらず、いい相撲とならなかったことについて反省をする、誠に相撲とは何かを知る立派な態度を示したのである。

 白鵬の「野暮」をモンゴル出身のせいにすることはできない。

 

 白鵬を指導すべき立場にあるのは宮城野親方のはずである。

 実情は知らないが、40回を超える優勝実績の大横綱に親方が言えるのは、協会からの指示・指導の伝達がやっとなのではないか。

 そして、白鵬が学ばなければならないのは、協会が伝える単なるルール上のことではなく、「態度」「姿勢」を生み出す「精神」なのである。

 宮城野親方に期待するのは「ないものねだり」ということになろう。

 

 白鵬の「野暮」とは、白鵬が「いき」を知らないということだ。

 日本人の精神たる「いき」、それが何なのか、日本人もよくわかっていない。わかっているようで、曰く言い難い。九鬼周造「いきの構造」という名著があるが難解である。

 どんなに凄くても、立派でも、重大事件に対しても、「所詮、それだけのこと」「たかが知れている」「かりそめのこと」「本気になるほどのことでもない」「まあ、行きがかりで」「悪くもないっていうところ」‐‐‐‐こういう覚めた態度を「一生懸命」の裏に忍ばせているというのが「いき」ではないだろうか?

 「覚めた態度」だけでは単なるニヒリズムであり、表面上の「一生懸命」はなくてはならない。「一生懸命」と「覚めた態度」の併存が「いき」となるのではないだろうか?

 むずかしい言葉を使えば、自分が追いかけている「価値」が「絶対」「永遠」「普遍」につながらないことを承知しつつ、したがって「まぼろし」であり、「刹那的」であり、実は「無意味」であることを自覚しつつ、でも追いかけていく、そういう人の「照れ」「恥じらい」が、その人に垣間見える、というのが「いき」ではないだろうか?

 だから、何かを目標に本気で一生懸命やっている人に「いき」を進めるのは、その無意味を自覚せよということであり、ためらわれるし、むずかしいということになる。

 

 嗚呼、白鵬、彼は単純な姿勢態度のまま、それを見直すチャンスもなく、人生を突っ走り続けるのだろうか?

 千秋楽の観客席にいた白鵬の奥さんと男の子と女の子がテレビに映っていた。父親の単純さの犠牲になることのないようにと、祈らざるをえなかった。