2021年7月14日
民族差別というものの本質は何なのか、サルトルによるユダヤ人差別の分析から学ぶべきところが多い。
自己の「根無し草性」、不確かなアイデンティティの不安に耐えられず、だからといってアイデンティティの根拠を探求する努力をしようともせず、自分はマジョリティだという感覚だけに頼ろうとする怠惰な精神が生み出す社会的精神病理学的現象、それが「反ユダヤ主義」についてサルトルの教えるところだ。
下に掲げる文章は、そのサルトルの「ユダヤ人」(岩波新書・安堂信也訳)の第1章「なぜユダヤ人を嫌うのか」の最終部分(P60~62)について、「反ユダヤ主義」を「反『在日』主義」に、「ユダヤ人」を「在日韓国人・朝鮮人」に、「黒人」を「外国人労働者」に、「黄色人種」を「中国人」に置き換え、日仏の状況の違いを踏まえて殺人、処刑、貴族が出てくる5行余を削除したものである。
マイノリティ差別に反対する立場から、民族差別にとどまらず、この文章を下敷きに、いろいろな置き換えが考えうるのではなかろうか。
「以上で、われわれは、完全に、反『在日』主義者を理解できたように思う。それは、恐怖にとらわれた男である。それも、在日韓国人・朝鮮人に対してではなく、自分自身に対して、自覚に対して、自分の自由に対して、自分の本能に対して、自分の責任に対して、孤独に対して、変化に対して、社会に対して、世界に対して、恐怖を抱いているのである。‐‐‐‐‐‐
そうした男が、反『在日』主義に加わるのは、単に、その意見を受け入れるのではなく、そこで、自分の人格そのものを選ぶのである。石のような不変性と不滲透性と、ただ上官に従う戦争中の兵士のような、完全な責任拒避(拒否+回避の意か?筆者)を選ぶ。しかも、彼には上官などいない。彼の選ぶのはまた、なにも得ようとせず、何物にも値いしようとせず、しかも、なにからなにまで、生れつき、自分に与えられているという境遇である。最後に彼は、「善」が、既に出来上がっており、問題にするまでもなく、また傷つけられる心配もないという立場を選んでいる。しかも善を認識し、さらに他の善を探求することをせまられるのが恐ろしいので、それを正面から見ようとしないのである。
ここでは、在日韓国人・朝鮮人は一つの道具にすぎない。他の地方では、在日韓国人・朝鮮人の代りにあるいは外国人労働者が、あるいは中国人が用いられている。この道具の存在のお蔭で、反『在日』主義者は、自分の苦悩を殻の中にとじこめてしまうこと、世界の中に自分の位置がはっきりと定められ、その位置は、彼のためにあけられていて、自分は伝統によって、そこへ坐る権利があると考えることが出来るのである。反『在日』主義は、一口に言えば、人間の条件に対する恐怖である。反『在日』主義者は、無慈悲な石に、怒りたける激流に、破壊的な雷に、その他すべてのものになりたがるけれども、人間だけにはなりたがらない人間なのである。」
なお、本書においては、さらに、ユダヤ人の特徴ある性格がいかなる理由によって形成されたものなのか、そしてユダヤ人の問題を解決するためにはいかなる方途が考えられるのか、という問題が取り扱われており、いずれもユダヤ人の問題にとどまらない有益な示唆にあふれている。