2021年6月28日
「利己的遺伝子論」を単純化すれば、生物進化の歴史そして人間の歴史は「遺伝子の自己増殖という単一目的実現の効率性の向上」で説明できるという考え方ということができるであろう。
また、世間的にも「利己的遺伝子論」はそのように受けとめられていると思われる。
「利己的遺伝子論」からすれば、人間は、遺伝子の自己増殖の効率性の現時点での窮極として存在していることになる。
遺伝子を住まわせ、その増殖を請け負う「手段」の最もすぐれたものとして人間があることになる。
ここで問題が出てくる。
遺伝子に「手段」として選び出された人間に「主体性」というものが発生したのである。
言い方を変えれば、「主体性」というものをもつ人間を遺伝子が選び出したのである。
「主体性」とは、人間の個体としての「利己性」である。
この個体としての利己性が遺伝子の利己性と対立することはないであろうか?
人間の個体としての利己性は遺伝子が許す範囲の限定されたものでしかないであろうか?
人間の「主体性」の発生については、その働きによって人間の生存環境が改善することにより、遺伝子の自己増殖の観点からも好ましい状況になるというような説明が可能であろう。
人間の「主体性」の発生が直ちに「利己的遺伝子論」の破れということにはならない。
しかし、その後、「主体性」が鬼子にならないか、鬼子が遺伝子の自己増殖に敵対する行動をとるようになることはないか?
「主体性」の発揮による人間の状況の改善は、遺伝子にとっても「願ったりかなったり」であるはずで、人間の「主体性」と遺伝子の対立はなかなか想定しにくい。
例えば、少子化、LGBTQなどについても、大きく言えばそれは人類の状況改善と評価することは可能である。
「利己的遺伝子論」はこのような短期的な反増殖現象では破れない。
核戦争、ジェノサイドもまた、それによる勝者の立場からは状況改善と主張されるであろうから、論理的には「利己的遺伝子論」は破れない。
筆者は次のような事態を想定する。
いよいよ地球滅亡を迎えたとき、安全な脱出先の天体を見いだしえていない場合、宇宙のできるだけ多方面にできるだけ多数の脱出ロケットを発射して生き残りを図ることになったとする。
その時、遺伝子の生き残りという観点に立てば、ロケットに乗せるには人間という高等生物の形態であるよりは下等生物の形態のほうが効率的ということが考えられる。
この場合、人間は自らは自滅することにして下等生物を宇宙に発射するという道を選ぶであろうか?
そのような遺伝子絶対優先の価値観が人間に形成されていることはまったく考えがたい。
ここで遺伝子は人間に反抗される。ここに至って「利己的遺伝子論」は破れることになるのである。
観点を変えて、「利己的遺伝子論」の適用可能範囲ということについて考えてみよう。
「利己的遺伝子論」が「利己的」という言葉を使うことによって、遺伝子が人格化され、あたかも遺伝子に意志があるかのごとく語られる場合がある。
個々の事象ごとに遺伝子がその「利己性」を発揮するかのように、個々の事象ごとに遺伝子が舞台に登場するかのような誤解が生じている。
実際に遺伝子の「利己性」が実現されるのは、「自然淘汰」という長い長い、非意志的な力学の過程を通じてのことである。
遺伝子はこの「自然淘汰」の過程において何らの動きを見せることなく、じっと沈黙して待つのみである。
したがって、実現される「利己性」にはおのずと限界があると考えざるをえないであろう。
民族の興亡、思想宗教の盛衰、芸術文化の転変等のすべてを「自然淘汰」で説明するのは不可能であろう。
興亡、盛衰、転変にはそれぞれの複雑微妙な論理がある。それを「自然淘汰」で片づけてしまっては、人類史があまりにも淋しい。
「利己的遺伝子論」の人文科学、社会科学の分野への適用は、慎重な検討が必要であろう。