2021年6月8日
仮に新型コロナ分科会尾身会長の具体的な提言があり、菅首相がそれにどうしても応じたくないという事態に至ったとする。
最終判断権が菅首相にあることは言うまでもないことであるが、この場合に民主主義国家のリーダーとして菅首相に必要なのは、自分の最終判断が正当であることの説明、説得である。
それには「論理」と「雄弁術」がなければならない。
仮想の説得相手として尾身会長を設定したらどうだろう。
そして尾身会長が、「なるほど、それならオリンピックを開催する意味がある。リスクはあるがおやりなさい。」となるような「語り」を菅首相は展開するのだ。
それだけのものであれば、例えば筆者のような根っからのオリンピック反対論者は最後まで残るだろうが、多くの国民がオリンピック開催に傾くであろう。
開催支持は現状よりもむしろ高まることになるであろう。
「論理」もなし「雄弁術」もなし、力ずくで強行するとなれば、それは専制主義と呼ぶべきものである。
習近平を、ミャンマー軍事政権を、ベラルーシ独裁政権を日本の首相は非難する資格がないことを天下に表明するものである。
日本は自由と民主主義という価値観をどこかの国と共有しているなどとは言えないことになる。
そして、時間稼ぎのために同じすれ違い答弁を何度も何度も繰り返すという居直り的対応は、これもまた一種の専制主義であると言わざるを得ない。
菅首相は自分の判断に自信があるのであれば、その拠って来たるところを冷静に自己分析し、それを論理化し、言語化しなければならない。
そして言語の足らざるところを補うため、相手に正面から視線を向け、マイクを鷲づかみにし、テーブルを叩き、場合によっては叫び、場合によっては泣かなければならない。
それがまさに民主主義国家におけるリーダーというものである。
明日(6月9日)の党首討論は菅首相にとって国民を説得する絶好の機会である。
この絶好の機会を空しく浪費することのなからんことを祈りたい。