2021年6月3日

 

 都々逸という定型詩がある。

 俳句が五七五の17文字、短歌が五七五七七の31文字に対して、都々逸は七七七五の26文字である。

 俳句、短歌は今日隆盛を保っているが、都々逸は風前の灯火である。

 現在のものに筆者がお目にかかったのは、たしか浅草あたりのミニコミ誌だけだ。

 過去の名作としては「咲いた桜に・なぜ駒つなぐ・駒が勇めば・花が散る」がある。

 幕末の志士・高杉晋作の「三千世界の・鴉を殺し・主(ぬし)と朝寝が・してみたい」は御存知の方も多いであろう。

 

 都々逸は関東での名で、関西では「よしこの」と呼ぶらしい。

 三味線で唄えば「小唄」である。

 活字によって鑑賞されること少なく、三味線を伴うことが通常であった。

 詠われる題材も花柳界、男女の恋情等に偏りを見せていた。

 このため、俳句の芭蕉による純化、短歌の万葉以来の伝統により、それぞれ洗練、重厚化等があったのに対し、都々逸は庶民の俗謡にとどまった。

 そして花柳界の衰退によって今日を迎えるに至ったのである。

 

 七七七五の復活の可能性はないか。

 俳句、短歌、さらに復活を見せる川柳とは異なる、七七七五のリズムが導き出す独自の世界はありえないか。

 少々遊んでみた。

 過去には、都々逸をなしてきた人々共有の基盤、すなわち文化があって、その上に作者の機智諧謔が踊るという関係があったと思う。

 その文化を見いだしがたく、如何せん作者に機智というものがない。 

 

 コロナ明けには・カラオケ行って・はずれた音を・戻したい

 夏の暑さは・我慢ができる・我慢できない・愚大臣

 悲しい祭典・呪いは深く・神輿の屋根で・カラス鳴く

 祭を仕切る・日本の国が・何を祝うか・わからない

 新聞配達・次には雀・始発が通る・朝の床