2021年4月17日

 

 ZOOM飲み会でのやりとりで、本書についての書評を友人から要請されたので、さっそく読んでみた。 

 本書が「資本主義」の非人道性、自然収奪性という本質をあらためて暴露したことを歓迎する。

 本書がマルクスを再評価するきっかけになること、特に若い人達にマルクスへの関心をもたらすこととなることを歓迎する。さらに、マルクス主義の経済学分野を学問的に洗練させ、資本主義理解を深めさせてくれる宇野経済学にまでそれが及べばさらに結構なことだと思う。

 本書による飽食の時代への反省、犠牲的精神、相互扶助の精神の奨励を歓迎する。個人単位、家族単位のエゴイズム、そして民族、国家単位のエゴイズムであるナショナリズムを克服しようとする本書の志向を歓迎する。

 

 しかし、問題解決のために提起されている「脱成長コミュニズム」については、そもそもそれはいかなる性格のものなのかという基本問題がある。

 すなわち、「脱成長コミュニズム」は、社会全体をカバーする(資本主義市場経済、社会主義計画経済、あるいはこの2つの極端のあいだに位置する混合経済と並ぶような)新たな「制度」なのだろうか、既存の何らかの大きな制度の中に組み込まれる「部分的制度」なのだろうか、それとも「制度」ではなく「社会運動」なのだろうか、個々の社会問題に対応していくに際しての「規準」なのだろうか。

 「脱成長コミュニズム」及び「脱コミュニズムの柱」とされる5つの構想(①使用価値経済への転換②労働時間の短縮③画一的な分業の廃止④生産過程の民主化⑤エッセンシャル・ワークの重視)についての説明を読んでもそのことがよくわからない。ある部分では「生産を社会的な計画のもとに置く」とされ、ある部分では「生産手段を〈コモン〉として民主的に管理する」として工場ごとの労働者による分権的管理が示唆され、ある部分では既存の電力会社をはじめとする私企業の存在が前提とされているような議論がなされている。

 

 そして、「脱成長コミュニズム」における意思決定の主体と方法が明らかにされていないというのが何よりも問題である。

 「脱コミュニズム」の内容が不明確のまま、「脱コミュニズム」が一定の権力(=社会的意思決定権限)を獲得した場合、それは恣意に流れ、それは本書で否定的に取扱われている「気候毛沢東主義」、すなわち専制政治を呼ぶことになるのは必至である。

 したがって、現在の段階では「脱成長コミュニズム」については、象徴的にいえば、政権をとるような資格をまったく欠いている段階と断じざるをえない。せめて野党的な立場としての活動に期待することができるというほかはない。

 

 また、「脱成長コミュニズム」が将来の生産性向上を断念しているらしいことは認められるが、現時点での激しい貧困化を覚悟しているのかどうかはよくわからない。

 「脱成長コミュニズム」は格差是正もその理念としているが、その格差是正を全世界的規模で図るとすれば、日本を含む先進国はいずれも激しい貧困とならざるをえない。そのことは簡単な算数で明らかだ。

 そのことについての覚悟を人々に説得し、醸成する哲学を「脱成長コミュニズム」は有しているのだろうか?

 「脱成長コミュニズム」は、物的レベルにおける経済成長優先主義の限界と不可能を説いて、物的レベルの安寧を保証するものとして「脱成長コミュニズム」を提唱している。

 物的レベルでの議論を「脱成長コミュニズム」は超えていないのである。

 その「脱成長コミュニズム」が激しい貧困化を人々に要求する論理を展開することができるとは考えにくい。

 

 「脱成長コミュニズム」は以上のような問題を解決すべく、これからまだまだ洗練され、発展していくであろう。

 本書の若い著者は、学者、思想家、社会運動家、すでに分散して各地で活動を開始している実践者のひとり、いずれかとなってこれからも活躍していくだろう。

 これからが楽しみである。