2021年4月14日

 

 これから読む本、まだ読んでいない本を紹介する。あまり例のあることではないだろう。

 無責任との批判は免れないところではあるが、出会いの偶然に驚いて、またうれしくて、紹介せずにはいられないのである。

 

 まずは出会いの経緯である。

 著者真木悠介の本名は見田宗介、書くものによって名前を使い分けている。

 筆者は蔵書を著者名で整理しているのだが、見田宗介で整理していたため、真木悠介の1冊が迷子になっていた。

 先日、偶然、その迷子の真木悠介の1冊「時間の比較社会学」を発見した。

 読書予定はなかったが、見田宗介で整理している場所に移そうとして、冒頭をペラペラとめくってみた。

 驚くべきことに、筆者が持っている問題意識、他の本ではお目にかかることがなく、これだけの世紀の最重要問題がなぜ取り上げられることがないのだろうと不思議思っていた問題が、ずばり冒頭から展開されていたのである。

 

 筆者の問題意識とは、これまでも本ブログで何度か触れたことだが、科学によって明らかにされた宇宙の消滅、それによる人類の必滅、それによるすべての無意味化、余儀なくされた虚無との直面という客観的状況にいかに対応すべきか、というものであった。この状況を受けて諸思想、諸哲学、諸宗教はその根本的修正を迫られないはずはないと考えていた。

 「時間の比較社会学」では、その最初のページにボーヴォワールの次のことばがある。

 「人類は消滅するであろうなどと断言するのを、何ものといえども許しません。人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものではないことをわれわれは知っています。」

 これに対して著者真木悠介は次のように言うのだ。

「このようにボーヴォワールは書いている。もちろんどのような実証的根拠もなしに。

 ボーヴォワールがこのことに固執するのは、人類の死滅を不可避のものとして承認するとき、われわれの現在の生の営為の意味のすべてが虚無のうちにくずれ去るのを、彼女が実感するからであろう。‐‐‐‐‐‐それは近代の合理主義が、究極においてひとつの非合理によってしか支えられない構造をもっているということ、すなわち、意味づける主体の存続を時間的に無限のものとして幻想しないかぎり、自己を虚無から救いだすことのできない構造を持っているということだ。」

 そして、この引用の最後の文章「それは近代の合理主義が‐‐‐‐」というところに真木悠介の以後の議論の伏線がある。

 すなわち、披露した筆者の問題意識は、それと一致していると思われるボーヴォワールの推測される実感は、近代合理主義に特有のものであって、人類に普遍的なものではないということ、「未来」についての近代の特殊歴史的な時間感覚がもたらすものであって、古代あるいは未開文明においては必ずしもそのような問題意識には至らないということを、真木悠介はこの本で明らかにしていこうというのである。

 筆者が絶対的客観的事実と捉え、人間を問題とするすべての議論はこの抗いがたい、悲しむべき事実から出発しなければならないと考えていたことについて、真木悠介は歴史的に形成されたものにすぎず、決して人類にとって普遍的なものではないという議論を展開しようというのである。

 

 真木悠介の試みが成功しているのかどうか、これから読む本なので、それを報告することができない。

 筆者のあてにならない読後報告を待てない方は、ぜひ直接本書(岩波書店刊)にあたっていただければありがたい。