2021年4月9日

 

 小生の持っている漢和辞典によれば、「命」という字の意味が「イロハ順」で並べられていて、「イロハ」で始まって「ヌ」まで10個ある。

 すなわち、旧仮名づかいだが、「いのち、君父また長上のいひつけ、おほせ、めいれい、政令、告示、其他の官文書、のる、告げる、いひつける、おほす、示す、教える、告示する、人に役また職務などをいひつける、まはりあはせ、うん、人力以外にあるもの、をしへ、教誨、なづく(名)、な(名に同じ)、(國訓)みこと(尊)」である。

 「いのち」についてはさらに「○生物の生活するもと、たまのを、○死に対していふいのち、○其人に最も必要な事物」という追加的説明もされている。

 持っているもう一つの漢和辞典には、「解字」(たぶん字を分解して字のもともとの意味を読み取るということであろう)というのがあって、「命」は「口(ことば)が意符。令が音符で、また、命令の意味を表す。口で命令する意。」とされている。

 

 「命」という字のもともとの意味が「命令」であるのはほぼ間違いのないところであり、10個の意味のうち「いのち」を除けば、このもともとの意味に近い意味としてほぼ了解できる。

 さて、命令という意味からの派生が考えにくい「いのち」という意味は、「命令」という意味からどのように生じてきたのであろうか?

 

 「生きていること」、そして「生きている時期(タイミング)」「生きている期間(長さ)」は「天命(天の命じるところ)」であるという考え方の反映がここにあるということに気がついた。

 もともとの「命令」という意味が、命令中の最高命令である「天の命令」の意味となり、「まはりあはせ、うん、人力以外にあるもの」を媒介にして、「いのち」に至ったのであろう。

 日本人の無意識に深く浸透していると言われる中国からの道教の思想がここに現われている。

 

 このように考えると次のような用例は、「天命」に楯突いてしまうことになるので、だからと言って決して間違っているというのではないが、「いのち」という意味が独立し、もともとの意味からの派生の程度が大きいと考えられる。「天命」たる「いのち」を自分勝手にやり取りしてしまうのだから、「いのち=天命」思想からの隔たりが大きい用例だと考えられる。

 「不惜身命」「身命を擲(なげう)って」「命、棒に振ろう」「命をささげる」「お命頂戴」

 

 以上は、「ゆえに命(いのち)かくあるべし」というようなことを言いたいものではまったくない。単なる言葉の散歩である。