2021年4月1日

 

 ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。その死んだ神というのは、いったいいかなる神なのか、それが問題となる。

 限定される特定の神(例えばユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3教に共通する神、例えば既存宗教すべてにおける人格神)なのか、それとも永遠性、普遍性、絶対性を象徴するものとしての神なのか、それが問題なのだ。

 言い換えれば、ニーチェは「神が死んだ」という言葉で永遠性、普遍性、絶対性のこの世での不成立を宣言したのか、そのような全面的否定には至ってはいないのか、ということである。

 その答え如何によって、「神が死んだ」結果として、その後に人類が負う課題が大きく変わってくる。

 ニーチェで言えば、「神が死んだ」結果として登場することになる「超人」、その「超人」が担うべき仕事が変わってくる。

 

 ニーチェの「神が死んだ」という宣言が永遠性、普遍性、絶対性の断念ではなかったとすれば、すなわち神が死んでも永遠性、普遍性、絶対性の成立の余地があるとするのがニーチェであれば、人類の外からもたらされる神の啓示はもはや期待できないが、人類みずからによる永遠性、普遍性、絶対性の獲得の可能性があるということになり、その可能性の実現が神なき後の人類の課題だということになる。その課題に応えるべき人間が「超人」と名づけられることになる。「超人」は死んだ神に代わる新たなる永遠性、普遍性、絶対性を人類のために探索し、もたらす者ということになる。

 逆に、ニーチェの「神が死んだ」という宣言が永遠性、普遍性、絶対性の断念だとすれば、人類が負うべき課題とは、永遠性、普遍性、絶対性の不存在に、すなわち「虚無」に、いかに対応するべきなのかを考えることだということになる。「超人」はこの世の「虚無」を認めたうえで、「虚無」への立ち向かい方を人類に教示する者ということになる。

 

 以上についてニーチェがどのように考えていたのか、専門の方々のあいだで研究はすでに終結しているのかもしれない。

 あるいはニーチェの考えにかかわらず、永遠性、普遍性、絶対性の問題は知の世界ですでに決着していることなのかもしれない。

 その点、筆者はまったく無知であり、まことに不勉強でお恥ずかしいかぎりである。

 そんななかで、たまたま森岡正博『宗教なき時代を生きるために』(1996年法蔵館)を読み、そこで森岡正博が宮台真司の「終わらない日常を生きる知恵」について批判するのに遭遇し、ふたりの意見不一致は、ふたりがそれに気づいているかどうかはわからないが、この問題についての考え方の相違によるということに思い至った。

 この短文はそれを報告するため、恥をかえりみずに書いたのである。

 

 すなわち、筆者の見るところ、宮台の「終わらない日常」とは、「神が死んで」、そして永遠性、普遍性、絶対性が失われ、無意味性にさいなまれて生きていくほかはない「虚無」の世界のことである。

 宮台は永遠性、普遍性、絶対性の追求を断念して、次のように言う。「わたしたちに必要なのは、「終わらない日常(筆者注:「虚無」)を生きる知恵」だ。「終わらない日常(筆者注:「虚無」)のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漫然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。」

 そして、宮台は永遠性、普遍性、絶対性の追求をむしろ有害なものとして、次のように言う。「その私を「不道徳だ、非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた、あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。」

 これに対し森岡は、宮台を引用(『 』部分)しつつ、「その知恵とは、いまの若い女性たちの一部がしているように、『輝かしい未来』を求めようとせずこの延々と続く日常を『まったり生きる』ような知恵である。それは、『別に『熱烈な恋愛』をしていないし、『宗教』にはまってもいない。かといって、コンプレックスに駆られてコミュニケーションから退却しているわけでも、自分らしい自分を探してあせっているわけでもない』ような状態のことである」と解説し、宮台を次のように批判する。

 「宮台の処方箋は、この社会のなかで適当に妥協して生きているのだが、それがなんだか後ろめたい人々に対して、「それでいいんだよ、なにも後ろめたく感じる必要はないんだよ」というお墨付きを与える機能しかもたない。適当に生きることそれ自体を考え直し、拒否しようとしている人々のこころには、けっして届かない。宗教によって生きる意味を探そうとしながらも、宗教の門の前で立ち止まってこころが揺れ動いている人々のこころには、宮台のことばは届かない。」

 そして森岡は、次のように主張する。

 「生きる意味を求め、ほんとうの自分を求めるこの私が、そういう私であり続けるために、私はいまの自分というものを変え続けていかねばならないのだ。だから、私にいま必要なのは、私が私であり続けるための勇気なのであり、そのために自分を変え続けていける勇気なのである。」「わたしは自分の一番大切なものを守りながら、自分のペースとリズムで変わり続けてゆく。私は孤独と対決しながら、生きる意味を求めてもがき苦しみながら、そして本当の自分とは何かという問いをたえず発し続けながら、この短い人生を生き切ってゆく。」

 

 宮台には永遠性、普遍性、絶対性に対する断念、すなわち前提としての「虚無」があり、その「虚無」をふまえて生きる知恵の必要を主張する。この世の「虚無」を認めずに永遠性、普遍性、絶対性を追求する「超人」を「偽物の父親」と非難する。一方、森岡は、自ら永遠性、普遍性、絶対性をあくまでも追求していくという勇気ある挑戦的な姿勢をかたくなに維持しようとする。すなわち「虚無」を認めない。

 その時からすでに四半世紀、ふたりは一時のようにマスコミに登場してくることもない。ふたりは今、どのような考えをもっているのだろうか?

 そして当時、ふたりの主張を聞き、揺れ動いていたであろう若者たちは、今どうしているのだろうか?

 

 この問題についての筆者の考えは、科学の進歩により我々の宇宙の必滅が明らかとなったことによって、永遠性、普遍性、絶対性はもはや夢見る対象でさえなくなった、というものである。

 ニーチェの「神は死んだ」の宣言は、神は残るところなく完璧に死んだ、と今や解するほかはない、というものである。

 ニーチェが殺しきっていたかどうかは断定しがたいが、科学の進歩が明らかにした宇宙必滅という事実が、我々の前で神を殺しきったのである。

 したがって永遠性、普遍性、絶対性の追求という道はもはやあり得ず、宮台のいう「終わらない日常を生きる知恵」で人類は生きていくほかはない。

 そして、知恵にはそれを研ぎ澄ましていくという洗練の道が待っていると考えられる。

 その洗練があれば、宮台の「終わらない日常を生きる知恵」は森岡の許容するところともなるのではなかろうか、とも思う。

 洗練には完成はなく、終わりがない課題であり続けるであろう。

 人類は、「虚無」を生きる知恵の洗練を存続のかぎりにおいて追求していくことになる。ニーチェの「超人」にとって「虚無」を生きる知恵の洗練がその仕事となる。