2021年3月4日
前回、虚無の事態への態度として唐木順三が挙げた4つのパターンを紹介した。
すなわち、
1 自らフィクションをつくって、虚無の事態から逃避する。
2 無意味さに辟易して、自殺する。
3 消極的に耐え、無為の頽廃のうちに消耗する。
4 積極的にそれを受取り、運命として愛し、無邪気に戯れる。
である。
もう一つの、とても大切な虚無の事態への態度があることを忘れていた。それを報告しておきたい。
唐木順三が挙げたパターンは、逃避、辟易、自殺、頽廃、消耗等と暗いものばかりであり、明るいのかとも思わせる第4のパターンも、「無邪気に戯れる」という表現にやけくその頽廃的な気分が濃厚にただよっている。
ニーチェは虚無の事態を、神の支配からの人間の解放、人間の自由の獲得というふうに、その積極面によって捉えたようだが、その結果としての表現は「権力への意志」だとか「超人」だとか、暗さ、おどろおどろしさを伴うものとなっている。
何しろ直面している事態が全てを無意味とする虚無なのだから、その否定的ニュアンスはやむを得ないことであろう。
ところで虚無とは、何の意味も生み出さない、凍結しきった、そこにいかなる実数を乗じてもいささかも変動することのない、絶対値を有しない、ゼロということなのであろうか?
このように問いを立ててみると、虚無が、ゼロではないことに気づくことができる。
唐木順三が挙げた4つのパターンの否定性、消極性、暗さがそれを象徴しているように、虚無はマイナスの感情、喪失感を人間にもたらすのである。
人間は虚無という事態に対して、無反応なのではなく、共通の、マイナスの価値を感受するのである。すなわち、そこにはマイナスとはいえ絶対値が有るのだ!
本能的に自己の存在に意味を求め、無意味に耐えがたい人間は、虚無の事態に対して、絶対値を有するマイナスの価値を共有するのである。
ここにおいて人間は、意味の喪失者としてお互いに相哀れむ関係に立っていることに気づく。同じ立場におかれたものとしての同情を他者に対して有することになる。
人間の連帯感がここに生じるのではないだろうか。
神、あるいは絶対性、普遍性といったものから見放され、虚無の世界に投げ出された無力で孤独な存在同士の連帯感である。
この連帯感をもって「ヒューマニズム」と呼ぶことができるだろう。新たなる「ヒューマニズム」の誕生である。
この「ヒューマニズム」によって虚無の無意味から意味が生じうる。
ここにおいて与えられる意味は、本能的に自己の存在に意味を求め、無意味に耐えがたい人間に救済をもたらすことになるであろう。
唐木順三の4つのパターンに加えておかなければならない虚無への態度とは、この「ヒューマニズム」である。
この「ヒューマニズム」によって唐木順三の4つのパターンもその意味合いを変質させる。
この「ヒューマニズム」こそ、虚無の事態に対して人間がとるべき何よりも大切な態度である。
未来に向かって、人間がとるべき最もフルーツフルな態度である。