2021年2月27日

 

 既存の様々な世界解釈が誤謬であったことが暴露され、これによって既存の諸々の価値観の成立が否定され、それに基づくすべての秩序や理想が虚構とされる事態、この虚無の事態に対する態度として、唐木順三は、その著「詩とデカダンス」において、次の4つのパターンを挙げている。

 1 自らフィクションをつくって、虚無の事態から逃避する。

 2 無意味さに辟易して、自殺する。

 3 消極的に耐え、無為の頽廃のうちに消耗する。

 4 積極的にそれを受取り、運命として愛し、無邪気に戯れる。

 

 これについて考えてみる。

 まずは、虚無の事態を虚無の事態として、人々が自覚的に認識するとは限らない、ということだ。

 おそらく、世の人々の大部分は、自覚的に認識するのではない。ことばとして虚無の事態の認識がなされるのは稀だろう。

 秩序を語る人、理想を語る人の語り口におのずと生じてくる確信のなさ、ためらい、無理な強がり、それらがもたらす雰囲気から、この世が虚無の事態になっていることを人々は肌に感じるのである。

 足元が揺らいでいる、社会があやふやになっている、信用するのはあぶない、といった感じだろう。

 だから、当然のことながら、虚無の事態に対する態度というものも、自覚的に選択されるわけではない。

 揺らぐ足もと、あやふやな社会、人の信用しがたさに対して、人々は、無意識のうちに何らかの態度をとっている、思わず何らかの振舞いを選択をしている、ということだろう。

 

 次に、虚無の事態に対する態度の4つのパターンのそれぞれのちがいについて、である。

 2の自殺を除けば、残りの3つのパターンは虚無の事態のなかで、虚無とともに存在し続けるという意味では同じことだ。

 1の「逃避」にあたっての「自らフィクションを作る」ということに関しても、「フィクション」を「仮想された一つの原理」と考えれば、3の「無為頽廃」にも何らかの「フィクション」はあるはずで、4の「無邪気な戯れ」にも「フィクション」はあるはずだ。虚無と知りつつ「自らフィクションを作る」という意味で3つのパターンは同じことだ。

 1の「逃避」も、3の「無為頽廃」も、4の「無邪気な戯れ」も、本質的なちがいはなく、ちがいをもたらすものは、本人の主観的な評価であるか、または第三者の特定の立場からの評価であるにすぎないということになる。

 2の自殺を除けば、3つのパターンは事態に対する「態度」というようなはっきりと区別できるようなものではなく、虚無の事態のなかで存在し続けることについての本人の「気分」、あるいは、存在し続けている人に対する第三者の「感想」「批評」といった程度のものであることになる。

 例えば、自分が何かに強くひきつけられることに対し、それを「逃避」とも「頽廃」とも「戯れ」とも考えることができる。

 例えば、誰かが何かに打ち興じていることに対し、それを「逃避」とも「頽廃」とも「戯れ」とも評することができる。

 いずれも可能だとすれば、虚無の事態への態度が「無邪気な戯れ」となることが楽しくて、良い。その方向が望ましい。

 

 さて、虚無の事態に対する態度の4つのパターンは、唐木順三は個人のとる態度として提示しているが、当然のこととして、社会全体の対応として考えることができる。

 そして、虚無の事態に対する認識は、個人の場合以上に社会全体の場合には、無自覚であり、社会的雰囲気といった曖昧なものの中に溶け込んでいる。

 したがって、虚無の事態に対する態度が、事態に対する正確な認識に基づいてなされているのは、むしろ稀なことと考えられる。

 不正確な認識、あるいは無自覚な社会的雰囲気によって、社会全体が「逃避」「頽廃」、そして個人の「自殺」にあたる選択をしがちであることを考えざるをえない。

 不幸なことに、結果として「無邪気な戯れ」の余地が失われかねない。

 

 正確な虚無の事態についての自覚的な認識が必要である。そこからすべては出発しなければならない。

 ニーチェは、虚無の永遠というこの事態を「永劫回帰」と呼び、「これこそ、ありとあらゆる、ありうべき仮説の中の、最も科学的なものである」としているそうである。