2021年2月18日

 

 「江戸の三島由紀夫」をもう一人発見した。こんどは実在の人物である。頼山陽(1780~1832)、儒者の家に生まれたが、脱奔、幽閉、廃嫡その他スキャンダラスな事件にまみれ、仕官することなく民間の儒者にとどまった男、そのすぐれた詩文が一世を風靡し、幕末の尊王思想の広まりに大きな影響を与えた男である。

 中村真一郎(1918~97)「頼山陽とその時代」によって、その頼山陽が三島由紀夫的要素を持つことを知った。

 

 まずは徳富蘇峰(1863~1957)が頼山陽の主著『日本外史』に対して次のように言う。「(頼山陽は)徹頭徹尾世間知らずの書斎的の人間で、大世間の空気に触れず、実務には携わらなかった」、そのため「(『外史』は)実際問題と相触れるところがない」。蘇峰は頼山陽をけちょんけちょんである。

 『日本外史』の『外史』というのは、プライベートに書いた歴史という意味なのだが、その名のとおり、史実という観点からすると極めて問題の多い書物のようである。中村真一郎も「ひとつの鮮明なイデオロギー的立場(注:尊王論)から書かれた史書であることは、疑いを容れない、と私は信じている。」としている。そのような空想的なところがある『外史』に対して、徳富蘇峰は鋭いアンテナを発揮してその「でっち上げ」的性格を批判しているのである。

 そして『外史』がそのような書物であることに関して、中村真一郎は山陽についての精神分析的見解を述べる。広島藩のトップの儒学者である父親の厳格一本鎗な教育、大阪から嫁いできた母親の都会的自由な雰囲気、その中に挟まれる卓越した才能の神経質な子ども、といったことによる山陽の性格形成を示唆して、中村真一郎は次のように述べる。「私は『日本外史』は、ある意味では山陽の幼児への逃避の産物であると思う。その点で彼(注:山陽)の神経症時代に(『日本外史』が)構想せられたということは注目に価いするだろう。」「彼は母の保護のもとへ逃げこむために病気(注:神経症)となり、また幼児の軍記物の絵本などに取り巻かれていた子供部屋の精神状態の再現をこの仕事(『外史』の著述)によって実現しようとしたのではなかったか。」

 

 この中村真一郎の記述は筆者にすぐに三島由紀夫を想起させた。祖母による実母からの幼児・三島の奪取、世間からの隔離、余儀なくされた空想的世界への耽溺、作品が成るたびにその歓心を買おうと最初に読ませたという母親への三島の特別な依存関係‐‐‐。

 

 「空想的な、政治戦略なき名分論」(中村真一郎)とされる頼山陽の『日本外史』は、このような病的性格をはらみ、そして山陽自身には討幕の考えなどはこれっぽっちもなかったとされるにもかかわらず、幕末の若者たちのバイブルとなって世を動かし、最終的には維新として結実することとなった。

 これに対し三島由紀夫の若者たちへの奮起の促しは、山陽とは違って三島がそれを積極的に呼びかけたにもかかわらず、何ものももたらすことはなかった。

 中村真一郎は、「あらゆる一時代の末期には、大衆の間に千年主義(ミレネイスム)が起り、終末論的空気が醸成せられるものだ」という。頼山陽の時代はそれがあり、三島由紀夫の時代にはそれが十分にはなかったということなのであろう。その差をもたらしたのは時代の何だったのだろうか?