2021年2月12日

 

 森喜朗は女性蔑視論者なのか、女性蔑視者なのか、それが問題だ。

 蔑視論者ゆえに辞任に追い込んだのか、蔑視者ゆえに辞任に追い込んだのか、それが問題だ。

 追い込んだ側にあいまいさが残っているのではないか。

 

 蔑視論者とは、女性は男性に劣る存在であることを確信し、それに伴う差別を当然とし、異なった取扱いがなされるべきだと積極的に主張する人のことであり、蔑視者は、外に向かって主張することはしないが、女性を劣る存在であると根強く考えている人のことである。

 

 筆者は、森喜朗は蔑視者であるが、蔑視論者ではないと思う。

 森喜朗のような海千山千の老練な政治家が時勢を知らないはずがない。

 ラグビー協会の女性理事の増員という実績もある。

 蔑視者ではあっても時勢には順応してきた男なのである。

 (森喜朗の女性蔑視は、自分の上に女性を決して戴かないという蔑視であり、自分の下については男性も女性も併せて蔑視していて、自分に対して従順でありさえすればいいのであり、森喜朗は専制君主的な、奇形的ジェンダー平等の人ではないかとも思われる。)

 

 それでは今回の発言は何なのか?

 筆者は、森喜朗の偽悪趣味によるものだろうと思う。

 発言が時勢に反するものであることは森喜朗は百も承知だ。

 それを敢えて発言することによって、笑いをとる、ある人たちの歓心を買う、ある人たちに権威を示す、というのが発言の背景にある森喜朗の心情だ。

 更に言えば、森喜朗は自身の蔑視感情を吐露しつつ、蔑視論者にはなりませんよという示唆をしているのでもあるのだ。

 

 だから、反発があるのは森喜朗にとっても当然のことだ。

 ただ、その反発がここまでのこととなるとは、森喜朗の完全な読み間違いだった。

 俺は時勢を知っているという森喜朗の高慢がもたらした「うっかりミス」だ。

 「うっかりミス」だからといって森喜朗が無罪になるわけではない。

 しかし、蔑視論者として意図的に発言した場合の有罪に比べれば、その罪の程度はずいぶんとちがうということになるのではなかろうか。

 森喜朗はそもそもジェンダー平等に反抗する気持ちなどこれっぽっちも持っている人間ではない。

 いつの間にか身についてしまった古い常識、古い道徳をかえりみるということのできない、変転していく時勢に喘ぎ喘ぎついて行くだけの、悲しい、わびしい「ノスタルじじい」に過ぎないのだ。

 今回の事件についていえば、森喜朗は、「悪」ではなく、「みっともない」という存在であった。

 

 なお、筆者はそもそも、東京オリンピックについてはその招致の段階から大反対であり、したがってその組織委員会のトップ人事などはどうでもいいという立場である。しかし、具体的な証拠を持っているわけではないが、筆者にとって森喜朗は利権という観点から問題視していた人物であり、その退場は、女性蔑視問題という別の問題を直接のきっかけとするものではあるが、誠に慶賀すべきことと考えているのである。