2021年2月2日

 

 前回にも触れた「江戸問答」(岩波新書)で田中優子が山東京伝「復讐後祭祀(かたきうちあとのまつり」という黄表紙(注:江戸時代の「大人の絵本」といったもの)を紹介している。

 その内容は、「①読書三昧の武士が主人公、②本を読みすぎて、「敵(かたき)討ち」こそ武士として自分のあるべき生き方だと思いこむ、③主人公は「敵討ち」をする立場になく、現実には相手は存在しない、④存在しないことを承知の上で、敵を求めて旅に出る」というものである。田中優子は「それは見方を変えればとても悲しい話で、ドン・キホーテと同じ構造なんですね。」と寸評している。(この黄表紙は国立国会図書館に収蔵されているようだが、一般用に出版されてはいないようで、話がその後どう展開し、どう決着するのか、残念ながら筆者は知らない。)

 

 田中優子はこの話でドン・キホーテを思い浮かべたが、筆者は瞬間にこれは三島由紀夫だと思った。

 田中優子は、「江戸問答」において、江戸時代の武士について、戦うことをその本来の存在理由としていた人間が、元和偃武(注:「げんなえんぶ」、元和元年の大坂夏の陣を最後に、戦乱がやんで太平になったこと)によってアイデンティティを失ってしまい、精神的に宙ぶらりんの状態におかれた存在だったという仮説をさかんに展開している。

 すなわち、たとえば、田中優子は言う。「結局、サムライという人たちは、ひょっとすると「自分はなぜここにいるのかがわからないと」いう、その感覚をかかえたまま生きていた人たちと言えるんじゃないかしら。」「抽象的な「サムライって何?」という疑問ではなく、実は「私って何?」みたいなことをかかえていたのではないか。」「めざすべきものはあっても、本当に自分は何かをめざしていいんだろうか、それは大切なのだろうか、そこもよくわからないわけですね。」

 あるべき生き方としては、理念的、抽象的、観念的に、頭の中で構想されただけの「武士道」があるのみ。その「武士道」が本来発揮されるべき戦場はもはやなく、「忠」の対象への絶対的傾倒の維持もままならず、「武士道」は肉体的実感のない、不自然なものとならざるを得ない。それに堪えられない人間が、実体的基盤を無視して、無理を承知で、肉体的実感を獲得すべく行動に出る。これは昭和の三島由紀夫も置かれた立場であり、三島由紀夫がとった道ではないか。

 

 このようなことがインテリにはあることを察知し、戯画化したのが山東京伝「復讐後祭祀(かたきうちあとのまつり」であった。この黄表紙は、当時の彷徨(さまよ)える武士たちをよく観察した上での、十分に意識的な戯画化であったにちがいない。

 

 自分がこれからやろうとしていることが、江戸時代にすでにあり得る話として予想され、戯画化されていることを三島由紀夫が知っていたならば、プライドの高い、自信満々の三島が、江戸的「軽み」で笑い飛ばされるおそれがある、あの挙に出ることはなかったのではあるまいか。