2021年1月3日
「20××年1月3日現在 派遣自衛隊員現員3万7324人 前日の戦死者31人 累計戦死者3572人」
派兵以来約10か月、毎日このような数字が発表されている。
最初の戦死者が出たとき、また上陸前に海上での戦闘があったときなどはトップニュースだった。
戦闘がもっぱら陸上となり、日々の戦闘が同じような内容になると、作戦の変更などがあるとやや大きく報道されることがあっても、特別のことがないかぎり、その内容は数字ばかりになり、ほぼルーティン化することとなった。
‐‐‐‐‐‐以上は言うまでもなく仮想の内容である。9条が改正されて自衛隊の海外派兵が実行された時点での報道ぶりの想定である。
数字は本日(2021年1月3日)に発表された新型コロナウイルス感染者の数字を借りてきたものである。
この仮想によって指摘したいのは、戦場が国内でなく海外の場合、そして日々の戦死者数が新型コロナのレベルの場合、海外派兵の報道は現在の新型コロナについての報道ぶりの程度となり、我々大多数の日常も、影響は受けつつも本当に深刻というわけでもない、現在のようなグレーな感じにとどまるだろうということである。
現場が筆舌に尽くしがたい惨状を呈していても、身の回りにそれが及んでいない圧倒的大多数にとっては、華美贅沢の自粛はあっても、あまり変わらぬ緊迫感のない日常が淡々と流れていくだけであろうということである。
要するに、先の大戦で影響が庶民の身に悲惨・深刻をもたらしたことをもって人々を反戦平和に導こうとするのは、反戦平和の思想として極めて不十分だということである。
それは国内が戦場になることを忌避する平和願望であって、海外派兵についてカバーされていない反戦平和だということである。
自らの被害を回避する観点からの反戦平和は、戦争推進勢力側によって作出される「正義」によって簡単に乗り越えられてしまうだろうということである。
反戦平和主義に潜んでいるエゴイズムは、それを払拭しておかなければ、海外派兵を阻止する力にはならないということである。
反戦平和主義は、理念をもって、社会科学的分析を基礎にして、人々のものにされなければならない。
1931年の満州事変から布告なき戦争が大陸で展開され、流血の事態が続いていたにもかかわらず、日本国内はむしろ景気回復による明るささえ呈していたという指摘もある。
変わらぬ日常の中で毎日続く新型コロナの死者数の発表が、「戦時」の実際を想起させてくれた。