2020年11月11日

 

 文芸春秋12月号に石原慎太郎が「三島由紀夫の『滑稽な肉体信仰』」という文章を書いている。題名には少々期待させられたが、内容は「肉体信仰」に特に焦点が当てられているものではなかった。肉体のことに限ることなく、三島を全般的に貶(おとし)めようとするものであった。知られていなかったエピソードが特別に提示されているわけでもなかった。三島を貶めようとするならば、その材料は世の中に五万とある。単に「常識人」の立場に立ちさえすれば、「非常識」を三島は躊躇なく開け広げていたのだから、三島を貶めることなどはまったく容易なことでしかない。そんなことにはまったく価値はない。三島割腹50年のこの時期に、なぜ石原慎太郎はわざわざ、三島を貶める文章を書いたのだろうか?

 ‐‐‐という問いを設定してみて、筆者はこの問いが馬鹿らしい問いだということに気づいた。

 石原慎太郎は、かねてより自己顕示欲が過剰な、単なる売文家だ。三島との接点をもつがゆえに、また三島との接点を持った人々との付き合いがあるゆえに、多少は個人的体験として三島を語る資格がある。三島割腹50年の現時点で、石原が三島について何を語るか、その興味を持つ読書階層の存在は想定される。それゆえに文芸春秋から慎太郎への依頼があったというだけのことであろう。今回の文章から慎太郎の執筆動機と言えるようなものはうかがい知れない。

 

 今回の文章に慎太郎独自の問いは立てられておらず、当然それへの答えはない。問題意識がありながら、敢えてそれを抑えているのか、そもそも慎太郎に問題意識がないのか、それはわからない。

 「稀代の才能に恵まれて、素晴らしい文学作品を著わしていたにもかかわらず、なぜ三島由紀夫は、衝撃的な、異常な、狂気の事件を起こしたのか?」という一般に予想される問いに対して、慎太郎が答えているのは、要するに、「三島は、異常で、気がおかしかったのです。」というだけである。

 少なくとも、「なぜ三島は、異常になり、気がおかしくなったのか?」という更なる問いが予想されるにもかかわらず、慎太郎はそれに答えようとする姿勢をまったく示していない。

 世の中に理解困難な事件が発生するたびに、異常な人間、狂気の人間が事件を起こしたのだという説明が行われる。この説明は、世の人々に、事件を自分の問題とすることを要求せず、従来どおりの考え方でいればいいという安心感を提供する。安心してこれまでどおりの生活を続けていたいという保守的、防衛的な世間一般の需要に応じる説明の仕方である。三島を単に異常とする慎太郎の答え方もまた、まったくこのような説明振りと軌を一にするものということになる。

 まあ、これが「安心・安全志向の思想版」「現状肯定のプチブル思想」とでも名づけられるもので、文芸春秋路線というものであろうし、石原慎太郎の役割というものなのであろう。

 世の中のことは自分の手の内のことというポースをとりたい老残の醜悪な文章だ。プライドをなくしたインテリとは有害なものだ。

 あの世があって、三島と再会することを、慎太郎は恐ろしくはないのだろうか?