2020年10月16日
日本学術会議のあり方について自民党と政府との両方で、検討が開始された。政府の方は、はしゃぎすぎで、思い付き的な河野行革担当相が取りまとめを担当するようだ。どちらかというと党が先行しており、スガ首相が主導したものではないようだが、理念なきマキアベリストである首相は、そりゃいいじゃないか、行け行けどんどん、といった安易な態度のようだ。かつて橋下徹が府知事の時、文楽への助成をやめるとかやめないとかで騒ぎを起こしたことがあったが、それと同質の~というのは価値を測るのに単純な物差ししかもっていない権力者が深い文化的価値があるものに素人判断で介入するという意味だが~はるかに深刻な影響をもつ事態が生じるのではないかと懸念される。教養に欠ける、軽くて薄くて浅い、カネと票と地位ばかりしか考えない政治屋たちが、日本の科学の100年の計に関わることに対して、しかも年内とかいう短期のうちに、何等かの決定を出すなどということがあってはならないと考えられる。「国家の品格」というようなことが言われたことがあったが、日本が品格を維持することが出来るかどうかに関わることで、成り行きが大いに心配だ。「貧すれば鈍する」というが、日本の国が「貧した」結果、かくも「鈍する」ことになるのかと寒心に堪えない。日頃、国家の品格に注意を払っているはずのナショナリストの諸君も黙っていないで積極的に発言してもらいたい。
かつて「科学」は王侯貴族、大商人等によって支えられていた、養われていた時代があった。その後、「科学」の成果のうち社会的に有用なものは「科学技術」となって資本主義的生産過程の中に投じられていった。そしてそれが期待できる「科学」自体も資本主義的生産過程に取り込まれることとなった。近代文明はそうしたことの結果生まれた科学技術文明ということができる。「科学」が社会的に有用な成果を上げてきたことが重要であることは論をまたない。しかし、社会的に有用な成果を上げることが科学の目的をすべてカバーすることではないということがさらに重要だ。かつての王侯貴族、大商人等が「科学」を支え、科学者を養った動機には、その社会的有用性への期待をはるかに超えて、自分たちの生きている世界、自分たちを取り巻く世界を知的に理解したいという願望があったことを忘れてはならない。その願望があったればこそ、「科学」のパトロンたる王侯貴族、大商人は単なる利益追求者にとどまらず、品格を帯びる存在となりえたのである。
現代において「科学」のパトロンたり得る者はどこにいるか?別言すれば、「科学」のパトロンたり得るために必要な富が集中しているところは現代においてはどこか?この問いに答えるにあたり、最先端の現代科学が必要とする資源がかつての時代とは比べものにならない巨大なものとなっていることを考慮しなければならない。残念ながら、かつての王侯貴族、大商人等に当たる人々は科学からの必要に対して過小であり、また投資効果のあるところにしか資金を供給しようとしない、普通の利潤追求者に堕してしまった。「もうかりまっせ」というレベルを超えた、非営利的存在で、かつ巨大な資金を有する者なければ、現代の「科学」を支え得ない。すなわち現代の科学のパトロンたりうるのは「国家」、すなわち民主主義のもとではその主権者である「国民」、でしかないのだ。
そして、単なる有用性、生産性では評価できない、評価すべきではない「科学」の、どの分野にどれだけの人的物的資源配分をしたらいいのか、また場合によってはどのような制限、制約を課したらいいのか、ということについては、その分野の論理、その分野の最先端、その分野の可能性と限界を知る専門家、専門家集団の知的誠実性に頼るしか方法がない。単なる有用性、生産性では評価できない、評価すべきではないという意味では同質の「芸術」に対する公的関与において専門家が必要とされるのと同様である。かつての王侯貴族、大商人等においても本人たちが造詣が深いのみならず、有力な専門的アドヴァイザーが控えていたことを忘れることはできない。「科学」については、他の分野とちがって、国権の最高機関たる「国会」に委ねればそれでよしというわけにはいかないのだ。
日本学術会議はそのようなものとして国に置かれた組織である。独立性付与の根拠はここにある。
変転極まりない現代社会において、組織の見直しが絶えず必要なことに間違いはない。だから、見直すことは誠に結構である。ただし、見直す際には、安易な態度での見直しは決して許されない。日本学術会議が設置された根本的精神を踏まえ、日本の科学100年の計を検討するに足る十分な人格、学識の備わったメンバーをそろえて、じっくりと検討されなければならない。素人国会議員が短期間で結論を出せるような類の話ではない。ことは憲法、安保法制並みの国家基本事項である。このようなセンスなしで、単純に行け行けどんどんというような態度をとっているとすれば、総理大臣としては失格である。