2020年10月6日
古井由吉の最後の小説集「われもまた天に」から「われもまた天に」を読んだ。
題名から自身の死について書かれたものではないかという予想をもったが、そもそも古井の作品はいつも死が通奏低音のように流れているものであり、今回の作品も同じようなものであって、特別のものではなかった。日記のような、考えごとの覚書のような、思い出したことの記録のような、それらが渾然一体となった、いつものスタイルである。そういう意味では、逆に、題名が特別にストレートに死を示唆するものであることについて不思議さを感じる。古井由吉の逝去は本年2月であり、この作品は前年9月だから逝去の半年前に発表されたものである。
その年の上期の社会的事件への回顧がなされている。具体的に3つの事件があげられ、3つ目として次のことが書かれている。
「かと思えば、高年の父親がやはりひきこもりと言われる中年の息子を刺殺した。」
筆者が特別の関心を持たざるを得なかったこの事件を古井が特掲してくれていた。なぜかと問われれば自分でもわからないが、ありがたく感じる。
4月の下旬にかかる頃のこととして、古井の個人的なできごと、道に迷うという話が書かれている。
迷ったのは古井の自宅マンションからごく近い地域でのことである。古井は具体的地名を出してはいないが、そこは、かつて筆者が自転車を乗り回していた地域であり、具体的な場所がどこで、古井がどのように歩いたのかを手に取るようにわかることができた。特権的にありがたく感じることができた。
歯の治療の話にかなりの紙数が割かれている。これは初夏のことだ。古井の病院体験はそれこそ山のように書かれているが、歯医者の話はめずらしい。一方、歯医者にほとんど縁のない筆者であるが現在たまたま歯医者に通院している。これもまあ、筆者にとってみれば恩恵的偶然である。
古井25歳8月の思い出として、山での遭難ギリギリの体験が登場する。岩手県、乳頭山、雫石といった地名が出てくる。無事帰途に就き、次のような感覚があったと述べられる。
「睡気にまつわられたまま(注:夜行列車での帰還だ)赤羽の駅に降り、早出の人でちらほらの電車に乗り、わずか4、5日の間でも、山から出て来ると、女の人が美しく見えるものだと感心しながら家に帰ってきた。」
筆者は、山ではないが、30代であったろうか、同じぐらいの期間、沖に出っぱなしのことが2度あり、帰港したとき、まったく古井と同じような感じになって、そうなった自分をとても不思議に思ったことがあった。同じようなことを他の人から聞いたことがない。同じことを聞くのは大文豪古井がはじめてである。これはもう、実にありがたく、はしゃぎたいくらいに、うれしい。