2020年10月3日
「その物」なる命名は、1950年(昭和25年)武田泰淳38歳の作品「異形の者」に登場する。「異形の者」の最終部分、修行僧の主人公の言葉、ただの修行僧ではなく何とも破滅的な修行僧の言葉として登場する。「異形の者」とはずばり僧職のことである。
大殿の金色の仏像に対して、主人公は、まずは「あなた」と呼びかける。
「それ(注:これから決闘に行くこと)もあなたは見通しているのだろう。今これから髪捨山(注:決闘場所)に出かけて愚劣な行為にふける。そんな俺の運命も、みんな計算し、指導しているのだろう。俺がそれを中止するにしろ、断行するにしろ、みんなあなたはそれを前もってきめてしまったのだろう」
「さまざまな執念があなたの前にささげられた。死んだ尼僧や、親族を失った老若男女の、涙が何万石となくささげられた。俺もこうしてあなたの前に坐っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。」
そして、「あなた」と人格があるがごとく呼びかけておきながら、その人格性の否定を強調して「あなた」を「その物」と名づける。
「あなたは人間でもない。神でもない。気味の悪いその物なのだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。」
さらに、「その物」の人間界への不関与、にもかかわらず人間の側からの「その物」への関心の持続が言われる。
「俺は自分が死ぬか相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪捨山に行くことにきめた」
「俺は日に何回あなたの名を称えるか、あなたに誓うことはできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにちがいない」
「その物」、「あなた」と呼ばれながらも人格性は否認される「その物」とはいったい何なのだろうか?
個々の人間をとりまき、個々の人間の「生」を規定するものとして、人間が作っている「社会」のほかに、人間のコントロールをはるかに超える何かがある。それは人間の内面奥深くに存在する何かであり(いわゆる「深層意識」)、また人間の外面を広く深く覆っている何かである(極小から極大に及ぶ宇宙・自然)。通常の意識で感知できないものもあり、感知できるものもある。通常の意識で感知できるものを否定し尽してしまうものもある。
この人間の「生」を規定しつつ人間のコントロールの及ばない何かに、原理、法則、秩序というようなものはあるだろうか?そもそも、何か自体はあるだろうか?あるかもしれない、ないかもしれない。それをあるとして考えられたもの、人間の「生」を規定しつつ人間のコントロールの及ばない何かであって、何らかの原理、法則、秩序を有するもの、それが武田泰淳のいう「その物」だ。便宜のためにそれに人格性を付与して名づければ、武田泰淳が好まぬところなのかもしれないが、それは「神」と呼ばれることになる。
古今東西、「その物」にはいろいろな命名がなされ、微妙なニュアンスの差を生じさせてきた。「唯一神」をはじめ「絶対」「真如」「実相」「空」「無」「真実在」「一者」「道」等々がそれだ。武田泰淳はその微妙なニュアンスの差を避け、またその差が発生させた歴史的、夾雑物的要素を避けるために「その物」という手あかのついていない名称を探し出したのだ。(しかし、「その物」が物質性のものであるはずはなく、その点においては名称検討不十分と言わざるを得ないのだが。)
その存在は確かではない。しかし、人間はその存在を考えずにはいられない。武田泰淳もまた、「もし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにちがいない」と思わざるを得なかった。そして何らかの命名を考えなければならなかったのだ。
その結果、武田泰淳に何が訪れることになったのか?
武田泰淳がその答えを直接に語っているのを筆者は知らない。しかし、人間のどろどろ、血みどろ、残虐、浅ましさ、悪がしこさ、ずうずうしさ‐‐‐人間の否定的側面をこれでもかこれでもかと武田泰淳は描きながら、ニヒリズムに陥らず、作品にヒューマニズムがただよう。そのヒューマニズムは「その物」の存在の認識によって支えられているのではないか、という気が筆者はしている。