2020年10月2日

 

 スガ内閣の「非寛容」と「説明拒否」の姿勢が明らかになった。「非寛容」と「説明拒否」は合わせて「忖度」を呼ぶ効果を持つ。

 すなわち、「受け容れない」という結果だけがもたらされて、「なぜ受け容れないのか、拒否するのか」についての説明がなされないと、「受け容れ」を望む者は「受け容れ拒否」の理由を自分で推測する。その推測に基いて「受け容れられるよう」に行動するようになる。推測された理由は実際の理由よりも幅広いものになる。自主規制は必要以上のものとなる。これすなわち「忖度」である。

 スガ内閣は「忖度」を期待して、「忖度」させようとして、そのような姿勢をとったと判断される。

 「忖度」とは支配の手法であり、悪いのは勝手に「忖度」した者として、「忖度」を誘導した者に対する責任追及をむずかしくする支配の手法でもある。

 安倍内閣の陰湿な部分を担っていたのが官房長官スガであったという印象を強くする。

 秋田の農家出身の好々爺、「令和おじさん」という一部にあった親しみを呼ぶ評価は完全に払拭されなければならない。

 

 日本学術会議の会員の任命に当たり、スガ首相は日本学術会議からの推薦候補のうち6人を除外したという。しかも、任命しない理由は答えられないとしているという。

 任命権は総理大臣にあるので違法ではないが、学術会議の独立性を尊重するというこれまでの姿勢を転換するものである。

 「意に沿わない者」についてもその意見を聴こうというのではなくして、「排除」してしまおうという態度である。

 学術会議会員の任命を「桜を見る会」の招待と同一視して、政府による「恩恵」として考えている。制度の精神の誤認、無理解である。

 政府の各種諮問機関の委員の任命が同様に行われるのではないかと懸念せざるを得ない。

 

 思えば帝国陸軍の根本的誤りは、政党よりも海軍よりも何よりも民情を把握しているのは、また朝鮮、中国事情を把握しているのは現場にいる自分達であるという高慢にあった。

 その高慢さが超法規、実力行使の正当性、天皇の名を騙ることについての非躊躇を生んだのであった。

 「権力」が「謙虚」であるか、「謙虚」でないか、それが「権力」が誤りを自ら防止できるかできないかを決定する。

 スガ内閣には「謙虚」が欠けている。政策判断を誤ることが必至である。

 

 スガのあとを狙うカトウ官房長官は今回のことについて「会員の人事を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能」と当たり前のお馬鹿なことを言って、国民を欺こうとしている。違法かどうかはそもそも問題ではないのであって、監督権の行使が適当であるかが問題なのである。論点ずらしは安倍首相の答弁手法だったが、カトウはこれを引き継いでいるようだ。

 そしてカトウは、正直にも次のように言う「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらない」。確かに「直ちに」という条件であれば「学問の自由の侵害につながる」と反論することは困難だ。反論困難性をもって議論に勝てるとカトウは自己満足しているのだ。

 しかし、なぜ「直ちに」という表現を入れたのだろうか?その理由は、反論困難性を高めるためである。そのために思わず、元官僚たるカトウが職業病的に入れてしまったのだ。かえって、「直ちに」ではないが、今回のことが「学問の自由の侵害につながる」と言っていることになる、そのことへの配慮不十分、上手の手から水がこぼれる事態ということだ。

 

 スガ内閣は衣の下の鎧を見せた。このこと自体がスガ内閣に社会が見えていないことを象徴している。

 実際に政策とするのは状況次第ではあろうが、志向としては「思想統制的」であることが明らかになった。政治的に「狭量」であることが明らかになった。

 携帯電話の料金引き下げ、不妊治療の公費負担とかいう個別のあめ玉に惑わされることなく、全面的に対決すべき政権であると断じざるを得ない。

 今回のことに限って言えば、願わくば学術会議会員は自然科学系会員も含めて全員辞任という抗議活動を展開していただきたい。