2020年8月8日
小説家の吉村萬壱(1961~)という人が自分に「神秘体験」がないことを嘆いている(「本当の事」:井筒俊彦全集第9巻月報第9号)。「焦って座禅の真似事をしても、妄念の世界は何一つ変わらない。」と言っている。「神秘体験」がその学問のキーとなっている大学者・井筒俊彦に心酔しているらしい吉村氏にとって、まして井筒俊彦が「経験(神秘体験)」なき者にはわからないのだというような、はっきりした物言いをする人であればなおのこと、自分を嘆かざるを得ないのはよくわかる。「何と鈍感な人生か。」「私には詩がわからない。」「井筒俊彦の読者諸氏が、この『経験』という壁をどのように超えているのか、私は知りたい。」「求めれば求めるほど何も手に入らない。」「私は『本当の事』が書きたい。でっち上げ(『経験』に基づかないで書くのは真の自分の事ではないと吉村氏はこう自己批評している。筆者注)を書くのはあまりにも詮無いからだ。」と言葉は募る。
しかし、読んでいて、一方では「これでいいのだ。」と吉村氏が考えているのではないか、と筆者は感じるのでもある。吉村氏が「神秘体験」を「『観照的生の絶頂』という『究極の幸福』」とばかり考え、ひたすらそれに憧れてばかりいるわけではないのではないか、とも思うのである。
大江健三郎は冗談めかしながら、次のようなことを言っている。「超越的なものを読んでいて一挙にわかってしまうときがあったら困ると思うんです。(笑)とくに超越的なものについてその人のいうことに全的に納得できないような人を選んで僕は読んでいるんです。」(柄谷行人との対談「世界と日本と日本人」:「群像 特別編集大江健三郎」所収)
この「超越的なもの」とは「『神秘体験』につながるもの」と解釈することができるのではないか。大江における「神秘体験」からの回避がこの語りに示唆されているのではないか。「神秘体験」によって「あっち」へ行ってしまうことは、「こっち」にいる人を見捨てることであり、仏教でいえば「小乗的」なことになってしまいかねない。これを大江は自分の道とすることを自覚的に断っていると考えられるのである。大江は、理不尽の充満するこの世界に対する知識人の究極のあり方として、みずからを生贄にして祈るという道のみが残されている、という考え方に至ったのではないか、というのが筆者の最近の気づきなのだが、「神秘体験」の追求はその道と矛盾することになるからである。
また臨床精神科医・ユング派心理学者の河合隼雄は、井筒俊彦~5歳からの参禅経験があって禅に通暁し、禅の本質としての「神秘体験」にしばしば言及があり、禅の公案というものが何なのかを部外者に知らしめてくれている井筒俊彦~を前にして、大胆にもこんなことを言っている。「敢えて言わせていただきますと、その究極点に達した後で、禅の人がこの世の方にかえってくるとき、どうもその生き方を理解し難いときがあります。敢えて極言しますが、何か信用ならんような感じがすると言いますか(笑)。」(「鼎談 ユング心理学と東洋思想」:「井筒俊彦全集第8巻」所収)
禅の修行では導師の存在が不可欠とされているようであり、導師のしかるべき助言のもとでの修行でないと、「あっち」へ行ったまま「どっか」へ行ってしまい、「こっち」にまともに戻ってこられないというようなことも聞く。これは河合の発言とは次元が違うかもしれないが、いずれにしろ河合の発言ともども禅の「神秘体験」に疑問を呈するものである。
吉村氏は、「その気付きの時は恐らく死の瞬間だ、という漠然とした予感がある。」と最後に書いている。この場合、「気付き」というのは「神秘体験」のことではないのだが、「神秘体験」と同時のこととして書かれていて、吉村氏が死の瞬間の「神秘体験」の訪れを予感しているということになる。
浄土宗における阿弥陀如来来迎図というのはそのことが象徴的に描かれているものではないだろうか。
イスラーム神秘主義スーフィズムの哲学者・イブヌ・ル・アラビー(1165~1240)は次のように言う。「現世は、その全体がそっくりそのまま、忘却の眠り(事の真相を忘れ果てた状態)なのであって、人が現世というこの存在の夢から目覚めるのは、彼が現世に死ぬ時、すなわち彼が己れの『我』を消去する時だ」(井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」:井筒俊彦全集第9巻所収)
これについては筆者も同じように予感していて、実はその時を楽しみに思っているのである。そして、それならば、あわてることもないか、とも思っている。吉村氏の場合はどうであろうか?