2020年7月31日

 

 「平和はいかに失われたか」(ジョン・アントワープ・マクマリー原著、アーサー・ウォルドロン編著:原書房、1997年)は、我が国の右翼系の人々の一部から、日中戦争の侵略ならざることを証するものとして上げられている歴史的文書である。果たして本書は日中戦争の侵略性を否定しているであろうか、右翼系の人々の主張は成り立っているだろうか、読んでみた。

 

 原著者マクマリー(1881~1960)はアメリカの外交官であって、1925年から1929年の間、中国駐在公使(当時、大使はおかれておらず、公使が最高位)を務めた人で、本国と意見が合わずに辞職、その後、1935年に国務省からの委託を受けて作成したのが本書掲載の報告書である。1931年満州事変(柳条湖事件)、1932年満州国建国、1933年国際連盟脱退と日本は国際協調路線を放棄し、独自の極東支配を強めていこうという姿勢を示していた。報告書は当然、この事態をどう考えるべきかということがテーマになる。

 マクマリーは日本をそこまで追いつめないで平和裏に問題を解決する道はあったとしている。日本がそこにまで至るについてはアメリカ、中国の側に問題があったとしている。日本は迫られたのであって、日本が積極的に侵略の意図をもって開始した行動ではなかったというスタンスをとっている。本報告書を我が国の右翼系が歓迎する所以である。

 しかし、それでは、マクマリーはどのような立場に立って、どのような選択肢があったと主張しているのであろうか。マクマリーの考えている平和とか問題の解決とはどのような状態を言っていたのであろうか。アメリカ、中国側における問題とは何だったのだろうか。これらのことから外れては、マクマリーが日本に対して言っていることの意味が明らかにならない。あらかじめ言っておけば、プロの外交官であり、アメリカの国益を図ることを使命としているマクマリーが、日本に正義があり正当性があったなどという単純な、一方的な立場にあるはずは当然ないのであって、我が国の右翼系が歓迎するような立場ではそもそもないのである。報告書中には「我々は、日本が満州国で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。」と明確に述べられている。

 

 1921~22年のワシントン会議、各国の海軍主力艦の建造比率を取り決めた会議ということで歴史の教科書に登場する会議であるが、マクマリーはこの会議の米国代表団の主要メンバーである。マクマリーの一貫した基本的立場はこのワシントン会議で形成、確認された国際協調体制の維持、推進にある。ワシントン会議は、第1次世界大戦後のベルサイユ条約(1919年)の流れを汲んだ会議であって、その精神のもとでの太平洋地域版という性格の会議である。大戦による帝国主義諸国の疲弊を背景として、大戦後の世界では再び戦争を起こさず、国際協調によって世界を運営していこうというのがその基本である。また、各国の帝国主義的欲望に蚕食された中国で強まる反帝国主義ナショナリズムに対しては、各国が協調して漸進主義的に対応していこうという精神も有していた。マクマリーはこのワシントン会議の路線に基づいてアメリカの中国外交を展開していこうとしていたのである。そして、ワシントン会議の路線に乗っていこうという判断は日本においてもまずは主流であった。日清、日露、そして第1次大戦と戦勝が続いてきたものの、単独で極東支配体制を確立するには国力の水準ははなはだ低く、日本のこれまでの権益を維持していくにはこの国際協調の流れに乗るのが得策であり、最も妥当というのが、幣原喜重郎に象徴される日本の国際協調派の考え方であり、この考え方が一般的に支持されていた。ワシントン会議において日英同盟の廃止の容認、旧ドイツ領の山東半島の変換、主力艦比率の不平等といった妥協に日本が応じたのも、このような情勢判断があったればこそであった。

 すなわち、この場合、国際協調とは聞こえがいいが、マクマリーの立場、ワシントン会議参加各国の考え、そしてその一員である日本の考えというのは、それまでの帝国主義的既得権益を既定の事実とし、その再調整があるとしてもその調整は戦争によらずに交渉で解決していこうということであった。また、中国に対しては、要求される帝国主義的権益の廃止・見直しについて、各国は同一歩調で、協調して、漸進主義的に、これに当たっていこうという考え方であった。ワシントン会議の路線とは、帝国主義国間の戦争を回避し、植民地等からのナショナリズムの勃興に対しても帝国主義的利益の確保を基本とする帝国主義的国際協調体制を構築しようとするものであった。ワシントン会議が追求する平和、国際秩序とはこのような意味での限定された平和、国際秩序だったのである。

 さて、そのような限定された平和、国際秩序でさえもその達成がおびやかされていく。すなわち、ワシントン会議で要請された国際協調の路線は、経済の更なる苦境によって各国が他国と協調する余裕を失い、一国主義に走らざるを得ない状況になり、もろくも破綻していくことになる。また、中国ナショナリズムからの諸要求は日増しに強くなり、想定していた漸進主義で対応できるようなものではなくなってくる。中国ナショナリズムからの諸要求に対してはアメリカが協調主義を捨てて、抜け駆け的にいい子になって振舞おうとする。ワシントン会議の精神の実行というマクマリーの立場、マクマリーの外交の基本はその貫徹が困難化してしまう。1929年、マクマリーは中国公使を辞職するに至るのである。このようなマクマリーの状況と同じような運命にさらされることになるのが、日本の国際協調派である。日本の国際協調派が考えていたワシントン会議の路線のもとで国益を図ろうというストーリーが成立しないことがだんだん明らかになってくる。国際協調派は国際協調路線の正当性の主張の根拠をなし崩し的に奪われる。自国の利益は自国で守っていくほかはないという軍部強硬派の主張への反論が困難化し、敗北を余儀なくされていくのである。

 かくしてマクマリーは、ワシントン会議の路線に期待した自分と同様にワシントン会議の路線に期待した日本が路線転換を余儀なくされる事情について、ある種の「同情」(肯定、容認ではもちろんない)を抱くのであり、ワシントン会議の路線が維持・貫徹されていれば、日本は独自強硬路線をとらざるをえなくなるようなところに追いつめられることはなかったであろうと、次のように報告書で述べることになるのである。

「 アメリカ政府は日本にきびしく、中国に好意的な立場をとったのが、日本にとっては重大だった。‐‐‐アメリカのこうした姿勢は、‐‐‐中国の高飛車な行動を許容し、またそれがさらに一層反抗的な行動を中国に取らせることになるであろうことを、日本人は理解したのである。」

「 日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。」

「 協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」

 

 以上のごとく、マクマリーの報告書の表現は、日本の満州での行動の直接的契機は権益の維持を目的にした防衛的なものであって侵略ではない、という外見を呈する。しかし、その表現を生み出した背景を見るならば、日本の満州での行動は獲得してきた帝国主義的権益の維持確保を目的としていたことが明白である。広い見地に立って流れを見れば、そこにあるのは帝国主義国としての侵略性であったことを認めざるを得ないのである。

 本書は日本の侵略性をいささかも否定するものではなく、本書が日本の侵略性を否定する証であるとの我が国の右翼系の一部からの主張は成り立たないと結論せざるを得ない。