2020年6月11日

 

 

 国家総動員、社会全体の目的意識の一致、利害対立抗争の一時的休戦、共通仮想敵の設定、中長期的観点の放擲、これらを、価値観を交えずに、ファシズムのメルクマールとすれば、今回の新型コロナ対応はまさに新型コロナファシズムということができる。

 ファシズムにどれだけ抵抗できるか、新型コロナ対応のための要求が出てくるたびに考えさせられてきた。それは否定すべきファシズムが発生した場合の予行演習のようだった。マスク着用、三密回避、外出自粛、一斉休校、営業自粛、県間移動回避………。予行演習だからありがたいことにひとつひとつは軽い。それでもファシズムへの抵抗は極めてむずかしい、これが結論だ。

 

 

 ファシズムは人々の日常を人質にしている。ファシズムと闘うためには日常を捨てなければならない。捨てる覚悟を持たなければならない。危機感がよほど強くなければ人々は日常を捨てない。香港は捨てている。全米各地でも捨てている。日本では後生大事と捨てない。日常に日常的人間関係のウエイトは大きい。ファシズムへの抵抗は日常的人間関係を奪う、村八分を呼ぶ。

 積極的同調者は自粛警察というようなかたちで発現した。正義欠乏症、権威願望症といった病理学的現象だ。しかし病理だと指摘されても、正義を担って高揚する彼らが行動をためらうことはない。

 大多数は消極的同調者だ。一元的情報源からのメッセージにいささかの抵抗力を持たない。明らかなるちぐはぐな要求に対しても唯々諾々と従う。要求を忖度的に拡大解釈して自らを緊縛する。抵抗者への村八分は彼らの投げかける冷たい視線によって遂行される。彼らは積極的同調者よりも重要なファシズムの担い手だ。彼らは疲れるのが嫌いだ。多元的情報の取得、批判と論議、そんな大変なことをする気力がない。人生を最小エネルギーで通過しようというのが彼らが獲得してきた諦観という名の合理主義である。テレビのコメンテーターがそれらしいことを言ってくれればそれで十分だ。そのコメンテーターたちはファシズムの食客なのだろうがかまわない。大事なのは日常、何より日常、なぜかわからないが日常、それが確保されるのであれば、清濁併せ呑むなんてへいちゃらだ。

 

 

 ファシズム、否定すべきファシズム、アンチ・ヒューマンのファシズムと闘わねばならない事態に備えて、必要なことは、日常を捨てる覚悟を醸成しておくこと、病理学的行動をとるかもしれない自分を警戒しておくこと、人生を他者に委ねないこと、自分が人生の主人公であるという立場を放棄しないことだ。